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アーカイブ:その他の主張集(2)

このページは、古い記事のアーカイブです。
記事は古くても、普遍的内容もあり、そのまま残します。
オリジナル時点では、HTMLソースの意図しないところに改行が入り、 改行が空白となって見にくくなっていました。
アーカイブとして修正するのに際して、現在と同じCSSファイルを使用して外見を共通にしました。
読みやすさも増したと思います。
一度読まれた方も是非ともお読みください。

このサイトの公開を始めてからいつの間にか10年以上が経過してしまった。
最初は何とか読者を増やそうと頑張っていたのだが、最近は、あまり気にしないようになってしまった。 何故なら他にある立派な主張のサイトのカウンタを見てもこのサイトと大差ないことに気付いたからだ。 しかし、大したことない(といっては失礼だが)サイトでも妙にアクセス数が多いものもある。

このサイトもできるだけ多くの方に読んで頂きたいので、できるだけ頑張って続けたいと思います。

第2集の開始について

2004/03/06

"
煙草の問題を考えよう"のページを発足したのが2003年5月だから、 早くも発足後10ヶ月以上を経過したことになる。 その途中では、ページの題名の変更もあり、当初予定していた内容とは、ずれも出てきている。 しかし、自分自身としては、内容は変わってきているものの、今の方法も悪くは無いと評価している。

元々は、煙草に関する問題とデータを集成し、事実を以って主張しようと考えていた。 しかし、データの収集というのは、簡単な作業ではなく、筆者のように、趣味として書いている者としては、 荷が重いことに気がついた。 それに、こうしている間にも煙害は進行している。最初から完璧なものなどある訳もなく、 とにかく出来ることから始めないと、煙害の進行を食い止めることはできない。 こんなページ位で煙害を止められるとは考えていないが、それでも、 必要な情報と意見をインターネットで公開するということに多少の効果はあると思う。 このような経過で発足し、少しずつ育てているのがこの一連のページである。

最初は本文だけを上手に纏めようと考えていた。 しかし、書いてみると、何か足りなかったり、寂しかったり感じるようになった。 そこで、最初は、気付いたことから順番に新しいページとして加えていった。 ところが書き始めてみると、書き足りないことばかりで、ウェブサイトの中の文書数が増えてしまった。 これではいけないと思い、それらを1つの文書に纏めたのが その他の主張集である。 第1集は、思いついたことから順に書き綴ったもので、順番も話題もばらばらである。 こうした話題は、近いうちに、分類して、PDFファイルに纏めようと考えている。

第2集も、第1集と同様に、纏まりなく、徒然なるままに書き綴ってゆきたいと考えている。 いつまで続くか分からないが、できることなら、煙草が無くなるときか、 自分の命が尽きるときまではこの活動を続けて行きたい。 既に私は第1集(その他の主張集)で、 煙草の絶滅を2020年と予想したので、これが当たれば煙草の最後を見届けることができそうだ。 しかし、この予想を当てさせるためには、このような活動や、賛同者の協力が欠かせない。

煙草の絶滅に向けて、一緒に頑張りましょう。

食の安全と煙草

2004/03/06

ここ数年だけでも食の安全に関する騒ぎが何回もあった。 最近記憶に新しいのは狂牛病と鳥インフルエンザだ。 こうした騒ぎが起こるたびに、煙草の問題と比べてしまうのは自分だけだろうか。

日本で最初の狂牛病騒ぎがあったときに、ある方が、ゼロリスク症候群として、 問題の騒ぎ方を皮肉っていた。 その方によると、狂牛病を恐れて禁煙でないレストランでサラダを食べるほうが、 禁煙のレストランでステーキを食べるよりはるかにリスクが大きいということだった。 残念ながら、URLを失念してしまい、その後検索しても見付からなかったので、 そのページを紹介することが出来ないことをお詫びしたい。 因みにゼロリスク症候群とは、あり得ないほどの低リスクを基準にする考え方ということである。

報道されていることが正しいとすると、例えば狂牛病が消費者の健康に影響を及ぼす部位は、 目、脊椎、腸の一部等の特定部位に限られるということだ。 そうすると危ないのは肉ではなく、牛の直接販売できない部位を使用した化学調味料 (メーカーではこういうものは化学調味料とは呼ばずに"天然"調味料だと位置づけているらしいが、 自分には、このような加工食品が天然とはとても思えないので、敢えて、化学調味料と呼ぶ) を使った食品のほうがはるかに危ないということになる。 それなのに、インスタント食品の規制や不買運動がさっぱり起きないのは不思議なことだ。 だから、米国からの輸入禁止措置などというのは、 国内の畜産業者の保護(更に云えば集票)が目的なのかと疑ってしまう。

鳥インフルエンザの騒ぎも同じことだ。 鳥が死ねばウィルスはそれ以上繁殖しないとか加熱処理すればウィルスは死滅する、 という報道があるにもかかわらず、 鶏の処分場や埋設場からウィルスが漏れてこないのかといって騒ぐ人が居るそうだ。

しかし、煙草の害は、これらの問題よりも遥かに深刻だ。 どのくらい深刻かは、いろいろなページに情報が載っているが、 私のページの
リンク集にある、 社会の早期分煙化や洛北等にリンクが紹介されているし、 私のページにも、 ある米国のページを日本語で紹介している。 何より、煙草を販売している当の煙草会社は、日本語のページには、 都合の悪い部分を隠す書き方 をしているが外国向けのパッケージページには煙草の害の警告文を表示している。

リスクの重大さを考慮するなら、食の問題で大騒ぎをする人は、 そのエネルギを、煙草の撲滅に向けてほしいと思う。

煙草とダイオキシン

2004/03/13

煙草の煙にはダイオキシンが含まれている。それもただならぬ量らしい。 しかし、そうした事実が隠蔽されようとしているように思う。 今回は、煙草によるダイオキシンの問題に付いて考える。
尚、この問題は結構な時間をかけて調査する必要があるので、今回は、その第一弾ということである。

最初に、"事実が隠蔽されているようだ"と書いた理由は、 環境省のページにある煙草により発生するダイオキシンの量が、 当初の報告と全く入れ替わってしまったためである。 では、どのような数字になっているのか、これから紹介する。

ここで紹介する内容の情報源は、日本国の環境省の公式ページであるので、 信頼性は、政府保証である。 但し、内容に意義を申し立てるのは読者の自由であり、政府が全て正しいと決めつける必要はない。 調べてみて分かったことは、ダイオキシンについては、未だに良く分かっていないということである。

(情報源)
情報源として、環境省のページから次の2つの文書を使用した。

(1) http://www.env.go.jp/air/report/h15-06/index.html
平成14年度 臭素系ダイオキシン類排出実態等調査結果報告書

(2) http://www.env.go.jp/chemi/dioxin/kento/dioxex0.html
ダイオキシン排出抑制対策検討会報告の要約


上記文書から煙草に関する記述を以下に列挙する。


文書(1)
文書(2)
煙草によるダイオキシンの年間発生量(日本国内の煙草からの大気への排出量)
0.1-0.2[g-TEQ/年] (1997-2002)
16[g-TEQ/年] (1996年注1)
大気中へのダイオキシンの放出量(日本全体での総排出量)
944-970[g-TEQ/年] (2002年)
7,680-7,135[g-TEQ/年] (1997年)
5,140-5,300[gTEQ/年] (1996年注1)
注1:文書中に明記されていないため、文書の公開年度の前年のデータであると推定した。

全体的にダイオキシンの排出量が削減されているのは、好ましい傾向であるとして、 さて、上記の煙草によるダイオキシンの年間発生量 の差は一体どこから来るのだろうか?与えられた情報の範囲内で知りえたことを下記に記す。

文書(2)は、平岡正勝氏(京都大学名誉教授)が取りまとめた資料に基いた数字であり、 文書(1)は、根拠のはっきりしない数字である。 この間に何があったかについては、別途推定するものとし、文書の範囲内でわかるものを下記に示す。

文書(1)の元になっているたばこによるダイオキシンの年間発生量は、下記の前提に基いて示されたものである。
たばこのダイオキシン類含有量についてはMatsueda注2らの報告を使用した。
Matsuedaらは1992年に市販されている各国の紙巻きたばこについてダイオキシン類の含有量を調査しているが、 日本銘柄のたばこのダイオキシン類含有量を用い、たばこの灰化する部分の重さを0.6g/本と仮定、 また、 たばこの燃焼により新たなダイオキシン類の生成や異性体プロフィールの変化が起こらず 注3全てのダイオキシン類が喫煙によりたばこから環境中に放出されると仮定した場合、 0.293pg-TEQ/本という排出原単位が求められる。 これらに当該年のたばこ消費量を乗じることによって、排出量を推計した注4

注2:Matsueda et al.: Concentration of PCDDs, PCDFs and Coplanar PCBs in Cigare-ttes
From Various Countries, ORGANOHALOGEN COMPOUNDS Vol.20,(1994)
Smoke Stinks補足説明: 松枝氏は、煙草会社とは関係ないものと思われる。 また、研究の目的は、あくまでも、本体に含まれるダイオキシンの含有量を調査することにあり、 燃焼排ガス中のダイオキシンを調べるためのものではなさそうだ。 このようなデータに悪用されてさぞかし無念だったに違いない。

注3:この部分を赤字にし、傍線を引いたのは、Smoke Stinksである。

注4(Smoke Stinks注):
この推計を行ったのはあくまでも環境省であって、Matsuedaらの報告に、 煙中のダイオキシンの量について記述があったとは書いていないことに気付く必要がある。


さらに、文書(1)の中には、下記のような記述がある。

なお、活動量(たばこ消費量)に関するデータの信頼性は高いが、 排出量原単位推計における仮定の要素が大きいため、 排出量全体としての信頼性はかなり低いと考えられる。

以上が、環境省の文書から得られる情報である。

さて、以下は、Smoke Stinksが、環境省のページから深読みした推論である。

ダイオキシン問題について検討委員会を始めたときには、 平岡座長が煙草のダイオキシンに関する影響について、衝撃的な数字を与えた。しかし、これではあま りにも、煙草産業にとって都合が悪かった。 そのため、煙草族から猛烈なクレームとも陳情ともつかない圧力がかかった。 このため、煙草族は、何とかデータをでっち上げようと画策していたときに、松枝氏の世界的にも有名な研究にある、 煙草に含まれるダイオキシンの量を表示してごまかしたらどうかということになった。 すなわち、煙草の燃焼によって発生するダイオキシンには言及せずに、 元から含まれるダイオキシン量だけを表示し、燃焼によって新たに発生するダイオキシンについては、 "不明"として逃げようとするものだった。 元々、ダイオキシンの測定は難しく、また、その発生メカニズムも解明されていなかったので、 煙草族にとっては都合が良かった。
研究者は、"それならば実験によって確認しよう"と提案したが、この提案は、否決されてしまった。
研究班はこぞって抵抗を示したが、圧力に屈し、結局松枝氏の数字だけを採用することになってしまった。 しかし、どうしても悔しくて、以下の一文を加えることにした。
"なお、活動量(たばこ消費量)に関するデータの信頼性は高いが、 排出量原単位推計における仮定の要素が大きいため、 排出量全体としての信頼性はかなり低いと考えられる。"
また、せめてもの抵抗を示すため、平成9年度の平岡報告は、そのまま残すことにした。


以上、簡単に書き綴ってきましたが、まだ、平岡研究についての内容を調査できていません。 文献を求めて大手書店を幾つか廻りましたが、在庫がなかったため、いずれ、図書館等で調査のうえ、報告する予定です。
不完全な情報であることをお詫びします。

排煙場(はいえんば)

2004/03/19
私が常日頃から感じている煙草についての矛盾点の一つが、喫煙者中心の用語である。 そもそも、この"喫煙"という言葉も、一方的な定義である。 こうした用語は、全ての人々に対して、喫煙者の行為への感情移入を強制させるものであり、 このような用語を廃止しなければ、煙草対策など進まないということに気付いた。
今後は、こうした不当な用語の矛盾を訴え、廃止すると共に、新しい用語を普及させるたいと思う。 即ち、煙草に関する用語を、"逆差別"用語として、公共の場から全て追放しようとの試みである。
考えてみれば、数十年前から見ると、結構な数の用語が差別用語として葬り去られており、 新たに逆差別用語を提唱して追い出すことも可能ではないかと思う。

先ずは、その第一弾として、"喫煙所"という用語について論じることにする。

既に用語のところで述べた通り、喫煙という概念は、宇宙中でその本人ただ一人の主観的定義であって、 その他の全ての人から見た客観的な概念は、発煙・燃焼・排煙等の行為である。 だから、筆者は、喫煙という言葉が大嫌いだ。 大げさに云うのではなく、こうした、利己的な概念への摩り替え用語は、 社会の全ての迷惑行為に繋がっていると信じている。

さて、タイトルに記した"排煙場"というのは、云うまでもなく、 所謂"喫煙所"を改名しようということだ。 喫煙所などと呼ぶから、"喫煙権"を濫用する人が減らないのであり、 行為を客観的にく捉えて、排煙場と呼べば、排煙のような迷惑行為を あたかも正当な行為であるかのように摩り替えることはできなくなるはずだ。 すなわち、喫煙などと呼ぶから"喫煙権"などという誤った概念を振りかざす輩が出るのであって、 "排煙権"と呼べば、権利を主張しようにも声が小さくなるだろう。 いままでの主張でも何度も繰り返しているように、煙草を吸うということは、同時に煙や臭気を発生させる、 または、空気汚染を発生させているのであって、"煙草を吸わせろ"という主張は、 "空気を汚染させろ"と主張しているのと等価である。 しかも、空気汚染による被害は、その刹那に煙草を我慢するという受忍とは比較にならない大きさである。 だから物事を正しく定義しなおすと、今まで不明確だった被害がくっきりと浮かび上がるようになるのである。

現在の喫煙所を排煙場と定義しなおすことができれば、以下のような効果が期待できるだろう。

  • 施設管理者には、排煙場所としての適性を判断するという正しい感覚が生まれる。 今までのように、その施設の特定の利用者主体ではなく、全ての全体を利用者を対象としての適正を判断するようになる。 よって、排煙場所の数を減少させる効果が生じる。
  • 利用者には煙草を吸っているのではなく、煙を発生させているのだという後ろめたい感覚が芽生える。 元々公共の場所に灰や吸殻を投棄してもなんとも思わない無神経な人々が大勢を占めていると思われるので、 用語の改変による教育は必要だと思う。常人であれば、排煙権など、大声では主張できないだろう。
  • 迷惑を被っている側は、煙は排煙場で出せ、と云いやすくなる。

以上のように発想を転換すれば、社会が全て変わるのである。
これをお読みの方はには、是非、ご賛同頂き、各処でこうした用語を使用して頂ければ幸いである。


タクシーに乗りたくない理由

2004/03/19
私は仕事上の都合でタクシーに乗ることが偶にある。 しかし、個人で利用するのはいつも躊躇してしまう。 決して高いからという理由だけではない。 タバコ臭いのが嫌なのだ。 だから、個人で利用するときは、予め分かっていれば、東京MKタクシーを利用する。 東京MKタクシーは、法人向け車両を除き全車禁煙なのだが、やはりそれでも煙草を吸う客が居るのだそうだ。 こんなのは嫌がらせ以外の目的ではないと思うのだが、会社は客に止めさせることはできないのだと言う。 この点を改善できれば、別のコーナーで応援する有力候補である。 この会社は運転手が特に優秀であり、絶対にいやな思いをすることはないと思う。 やはりいずれは推薦しておこう。

しかし、巷では、禁煙のタクシーを発見することは極めて稀である。 だから、タクシー乗り場の大量の客待ちタクシーを見るときは必ず、外から様子を観察する。 窓が開いているのは大抵運転手が排煙中か排煙後だ。 だから、様子確認できるまでは直に利用する態度を見せないようにしている。 一応、その場では、排煙中と確認できない場合でもタクシー車内は、概ね90%程度は、ものすごく臭い。 着用している衣服などはタクシーに乗っただけで、ニオイがついてしまう。 現在はこのような状態がいわば当たり前になっているので、タクシーを利用する気にはなれないのだ。

そもそもタクシー運転手というのは、サービス業であり、車内を汚して平気というのは、 従業者として不適格であると思う。 このような事態を改善しないで、 客が減ったと言って値上げを繰り返すタクシー業界は断罪しなければならないだろう。

用語の見直しと新しい用語の提唱

2004/03/21

排煙場の項で書いた通り、煙草関連の用語については見直すことが必要だと思う。 既に用語の項ではいくつか書いているのだが、これらは少しおふざけの用語も含まれている。 今回は、おふざけの要素を完全に排除して提唱したいと思う。以下に重要なものから順に既述する。

現用語
提唱する用語
提唱する理由
喫煙
下記の3通りに分類して使用する。
発煙
一般的な火をつける煙草を使用する行為には、必ず発煙現象を伴う。 従って、どのような場合でも発煙という用語は適切だろう。
排煙
発生した煙を除去せずに大気中にぶちまける行為だ。 公共の場所や第三者の存在する場所での発煙行為は、排煙と呼んでよいだろう。
吸煙
上記のように公共の場所に煙をぶちまける行為を伴わず、 密閉された空間など第三者に汚染の影響を与えない環境での発煙行為は吸煙と呼んでも良いだろう。 ここで定義した吸煙行為を行っている発煙者は殆ど存在しないものと思われる

日本語で書くと意味深であるが、英語で書くと簡単で"smoking"である。 最近までこの用語については何も思わなかったが、実は、英語の表現は実に適切であることに気付いた。 これを文字通り解釈すれば、発煙であろう。 この行為の中には排煙も含まれると解釈できる。 しかしながらそのまま素直に読めば吸煙という印象ではない。 素晴らしく適切な表現だ。
それに引き換え日本語の喫煙はどうか? 日本語では、煙を楽しむという自分勝手な表現に摩り替わってしまっているのに気付く。
やはり、物事は客観的に捉えて表現しなければならないだろう。
喫煙者
発煙者
排煙者
または、特別な要件を満たせば吸煙者でも良いだろう。
これもやはり場合分けが必要だろう。
正しくは、発煙者だ。 排煙者と呼べば、大気汚染を発生させている発煙者のことを指すことができる。 吸煙者という人を考えるのは難しい。やはり発煙者で十分ではないか。
愛煙家
排煙常習患者
いわゆるニコチン依存症の患者だ。現在の迷惑喫煙者のなかで特に悪質なものを指す。
排煙常習者
現在の通常のレベルの喫煙者を指す。通常は迷惑喫煙者である。
吸煙行為愛好者
吸煙行為を愛好し、ルールを守れない者を指導する人々を指す。 愛煙家と呼んで差し支えないのはこれだけだ。

今のように、排煙常習者のことを愛煙家と呼ぶことは許されない。 レベルに応じて左記 のように使い分けるべきだろう。

しかし、"愛煙家"は絶対におかしい。煙を愛し、満喫すれば間違いなく死んでしまうからだ。 絶対に廃止しなければならない用語だろう。

また、愛好者と、常習者を等しく扱うべきではない。
灰皿
代替案なし
英語ではashtrayでそのままだ。 そのままでいいような気もするが、なかなかいい表現が思いつかない。
煙草 毒物及び添加剤入り発煙・燃焼用 紙巻煙草引料 これには困った。 煙草、たばこ、タバコと3通りの表現があるため、新聞記事を検索するにも手間がかかる。
いずれにしても実態に合った用語に定義しなおすことが必要だ。
喫煙権 排煙権
大気汚染権
環境汚染権

既に述べた通り、排煙権が正しい。 換言すれば大気汚染権としても良いだろう。 吸煙権であれば本人の健康被害以外には問題は無いだろうが、 現実には排煙による環境汚染のほうが大きな問題である。

ところで環境汚染権など存在するのだろうか? 排泄などの環境汚染には生存権が伴っているが、タバコの消費には、生存権の裏付はないので、 こじつければ自由権に属することになろうが、 他人の生存権を犠牲にする自由権などというものは考えられないし、やはり、不自然だ。


強煙・放煙

2004/03/26

最近になって、煙草主体の用語そのものが煙害被害の防止の足かせになっていることを書いた。 そこで前回は様々な用語を提案してみた。 しかし、書いた後もどうもしっくり来ない。 加害という能動行為が端的に表現できていないのである。 考えているうちに、いろいろな用語を思いついた。今回はこれらの用語を提案する。

まず第一は、強煙だ。これは"ゴウエン"と読ませることにする。他人に吸煙を強制する行為である。 以前
別な主張で、煙草を吸うことと、 強姦や痴漢との類似性を指摘したことがある。 そのとき、類似性とは、自己の欲求を優先し他人の都合を無視することだという意味のことを書いた。 だから強煙の後半は、煙を3つ書きたい位だ。 このような用語で表現すると、オフィスで煙草を許容するというのは、 周囲の人に対する強煙行為を支援するのだということになり、 人権問題として議論しやすくなる。 また、特別法を制定して強煙に罰則を与えるという道筋をたてやすい。 元々は、本文で暴煙という用語を使ったが、強煙のほうが違法性が強く表現されているのではないかと思う。

次に提案するのは放煙という用語である。文字通り公共の場所に煙を放つ行為である。
普通は、何かを燃やす行為というのは、かなり限定された条件下でのみ可能だ。 たとえば、焚き火は場所を選ぶし、家庭内で調理器具を使わずに加熱調理をするのは難しい。 何故か煙草だけは特別扱いされている。 公共の場所で煙草を燃やして良いという法的根拠はあるのだろうか? 放火と違うのは、積極的に他のものを燃やそうという意思の有無だけであって、質的には全く同じことだ。 やはり、煙草は矛盾の中でだけ存在できる不思議な物体だ。 さて、放火を引き合いに出したところで、放煙という概念が明確になったと思う。 公共の場所に毒物を含んだ煙を放つ権利などというものはあるはずがない。 やはり、放煙行為も法律によって明示的に禁止する必要がある。

そもそも、繰り返し力説しているように、 煙草を燃やしたり燃焼煙を吸い込んだりする行為が前提の用語は適切ではない。 飛行場周辺の騒音被害の場合は、旅客業や輸送業が正当な公共的営業行為であるにも拘らず、 受動旅客行被害等とは云わず、単に騒音被害と呼んでいる。 煙草だけ特別扱いするのは絶対に納得できない。

強煙、放煙の引き合いに出した単語は、それぞれ強姦と放火であって、どちらも犯罪行為である。 現在、不当に容認されている煙草による被害は、こうした犯罪被害と質的には変わらないのだ というところに多くの排煙者が気付くようになれば、問題は、加速的に改善されてゆくだろう。

最近おかしいと感じたこと

2004/03/28
別に煙草の問題とは直接関係ないのだが、最近ちょっとおかしいなと感じたことがいくつかある。 どうもこのおかしさは、煙草の従来用語のような 奇怪な言葉を当然とする習慣の元になっているようなおかしさだと思う。

先ず第一は、先週と今週の週間文春の記事の話である。 事の発端は、週間文春が元外務大臣の娘のスキャンダルを記事にしようとしたところ、 記事にされている側から出版差し止め請求があり、それが裁判所によって差し止められたという事案である。 ここまでは、べつにおかしいという事はない。 なぜなら、その号は結局読む事ができなかったので、差し止めるべき記事かどうかも判断できないからだ。 問題はこの次の号である。
その号を購入した訳ではないので、詳細は読んでいない(というか読む気がしない)のだが、 地下鉄の吊り広告によると、裁判所の決定を不服とする内容の項目が大量にあるらしい。 どれも有識者と思われる論者ばかりなので、その方々は、先週の記事を見せて貰って書いたのだろうか。 項目を見た限りでは、全てが裁判所の決定を批判するものだった。

しかし、ここで、私は、"?"と思った。 普通に考えると差し止められた記事の内容を、その論者たちは読めないはずである。 それに、読者は、その問題の記事を読む事ができないので、読めない記事に関する意見を読んだって コメントのしようがないではないのか? 情報もはっきりしないままに、ただ単に裁判所を批判する記事を書くのは不公平ではないのだろうか? 何か一方的なのだ。 一連の記事を読んで、一方的に裁判所が間違っていると信じてしまう人は、 正しい情報を与えられずに煙草を消費しているユーザとどこか似ている気がしてならない。

次は、例によって読売新聞の大手小町の投稿についてである。 大手小町の投稿を読んでいると井戸端会議を立ち聞きしているような気持ちになることが多い。 何ともお粗末なものが目につくのでる。 それで、どうしてそう思うのか、あるスレッドを読んで、はたと気づいたのである。 そのスレッドは、"カレーをフォークで食べるのは変か?"という議論だった。 何ということはない議論なのだが、その結論はさておいて、私が驚いたのは、 カレーをフォークで食べるなんて常識外れで受け入れられないといった感じの論調が多かったことだ。 私にとっては結論などどうでもいいことだ。 何故なら、そんなことは、食う人の勝手であって、他人がとやかく言うことではないからだ。 カレーをフォークで食べたって誰にも迷惑がかかる訳ではない。 食卓で発煙することの是非とは次元の違う問題だ。 他人がカレーをフォークで食べるのが変だと批判する前に自分でやってみればいいことだ。 何も手のかかる実験ではない。 やってみて変だと思ったら止めればいいだけのことである。
どうしてこんなことを書いたのかというと、このように物事を決めつけるような発想の人には、 筆者が提案したような、用語の変革などという提案は永遠に理解してもらえないと思ったからだ。

以上の2点で実感したのは、一方的な見解を押しつけて世論を誘導するマスコミがあり、 根拠のはっきりしない常識を盲信する人が少なからずいるということだ。 マスコミの裏には、スポンサーとしての煙草産業が付いているし、 煙草なんて当たり前の習慣だと何の疑問も持たずに信じている人が大勢いる。

煙草との闘いは、こういった人々との闘いである。先は険しそうだ。


(ちょっと休憩)

実は私はカレーをフォークで食べるほうが好きなタイプだ。 スプーンで食べても一向に構わないのだが、どうも自分にはスプーンのほうが食べた後の (スプーンについた)汚れが気になるのがその理由である。 同じような理由で、自宅でカレーやシチューをお代りするときは、必ず一旦洗うようにしている。 単に神経質なのかもしれないが、食事のルール等は別に他人に不快感を与えなければいいと思っている。 (別にこの習慣を人に勧めるつもりもないし、 自分が正しいことをしているとも思っていないので良みとばしてくださいね。)

以前、大手小町のスレッドで、1÷0=0だと思い込んでいる人が多いのを知ってショックを受けた。 そういう人は、正しい意見(というよりもこの場合は真実なのだが)がスレッドの初期にあっても 絶対に読まない人だということも分かった。 これはかなりのショックだったのだが、これもやはり自分が神経質すぎるせいだろうか。

表現の自由とプライバシー

2004/04/03

上記の"最近おかしいと思ったこと"で、記述した週刊文春の出版差し止めの事案で、 東京高裁は、東京地裁での決定を覆し、発売禁止命令を棄却したという報道があった。 差し止められていた号が公開されることで、更に議論ができるようになるだろう。 私としては、その週刊誌のような覗き趣味はないので、特に興味のない内容だ。 しかし、とても気になる決定でもある。以下に筆者の考え方について記す。

報道を読むと、出版を差止めるか否かという議論は、 表現の自由という権利とプライバシーを侵害されない権利の法益の対立だったようだ。 報道によると、地裁は、プライバシーを侵害されることで、 回復の難しい損害を負うと判断したのに対し、 高裁は、そのプライバシーの侵害は、回復できないほどの損害にはならない と判断したところが違うということだ。 私は、法律の専門家ではないので、難しい法律論はおいておくとしても、個人的には考えてしまった。 これらの判断の違いの是非は別にして、権利の衝突という問題についてである。

一口に自由と云っても、完全な自由はない。 本来人の行動は自由だといっても、例えば人を殺したり物を盗んだりすることは禁じられている。 簡単に書けば、法令で明示的に禁止されている行為や明示規定がなくても 他者に損害を与える行為は許されない。 だから、自由の中には常に制約が内在することになる。 今回の問題の争点は、二つの権利の衝突でもある。 被告(週刊文春)からみれば表現の自由という権利があり、原告からみれば、放っておいて欲しいとか、 安息な生活を乱さないで欲しいという自由がある。

ここで筆者が思ったのは、表現の自由はプライバシー侵害の自由ではないということだ。 べつに原告側に肩入れする気持ちは毛頭ないが、マスコミの暴力は恐ろしい。 思いつくままに書くだけでも、古くは松本サリン事件で、無関係の人が、 あたかも犯人であるかのように報道されたことがあるし、 マスコミが散々犯人扱いしながら結局無罪になった事案も数知れない。 一旦壊されてしまった信用の回復は、難しいのだ。 現代も、自由の意味を理解しないままに、何でもやってしまう人が多いのではないかと思う。

この問題を煙草の問題に置き換えてみると、本質がはっきりと見えてくる。
"喫煙の自由"を振りかざす人は多い。 しかし、"喫煙"という行為が、"発煙"、"排煙"、"汚染"等を伴うことが理解できれば、 その自由に内在する制約に気づくはずだ。 上記の問題はこれと良く似ていると思う。 利己的な自由だけを行使して、制約を無視する、そういう考え方がはびこっているのではないかと思うのだ。 筆者には、こうした"制約違反"に慣れきってしまった原因の一つに煙草があると思う。 例えば、煙草会社がやっていることは、人が病気になろうが死のうが、不愉快になろうが、 制約が明示されていない限り、自分が儲かればいい、ということだ。 子どもの教育にも良い訳がない。

煙草とは関係ない事案だったが、やはり迷惑行為はどこか煙草に結び付いていると考えてしまうのだ。


ネットでの個人情報

2004/04/06

2度に亘って週刊文春の問題について論じてきた。 実は、本当に書きたかったのは今回の話題である。 インターネットに個人情報を晒すことの潜在的な恐ろしさについて書きたかったのである。

本物の愛煙家登場という主張で紹介したNさんが、とうとうネット被害にあってしまった。 実際にストーキング行為もあったものと推定される。 Nさんは、自分の個人情報を相当程度インターネットで紹介しているので、 Nさんの行動によって煙草の売り上げが減少することを恐れた何者かが 犯行に及んだのではないかと考えている。

犯行を順を追って既述すると以下の通りである。 この既述にはあくまでも私の推測を含むので、読者の方はその旨了承してお読みいただきたい。
(1) 掲示板に、煙草の銘柄のハンドル名で、荒し投稿を繰り返す。 ハンドル名は複数使用する。 私の定義した荒し行為の中の、MPとDWの混成攻撃を含み、なおかつ、名誉毀損にあたる犯罪行為である。 マルチポストで書きまくる。
(2) 荒し投稿を注意されると、ハンドル名を変え非喫煙者を名乗り、嘘八百を並べ、Nさんを誹謗・中傷する。
(3) Nさんの掲示板から辿ることのできた複数の掲示板に全く同じ文言の投稿を繰り返す。
(4) 更に、別のハンドル名で、誹謗・中傷を繰り返す。

このサイトの伝言板にも犯人による書込みがあったので、ログを保存した後、 警告抜きに即座に管理人権限で削除し、その後に同伝言板にて削除の公示を行った。 また、ログは証拠として、Nさん宛にメールで送付した。 その後も再び同様の攻撃があったのだが、こちらも無警告で伝言板から削除した。 実は、このような犯罪投稿はきっちり削除しないと管理人自身が幇助の責任を問われることがある。 そのため荒し投稿を放置することは社会的な責任として許されないことになる。

さて、ここまで書いて何を訴えたいかというと、それは防衛の必要性である。 私は多くの人が考えるように、煙草そのものの違法性を信じ、煙草の撲滅を訴えている。 Nさんの場合は、単純に、強煙や放煙(当然のことながらこのような用語は使用していない) を止めようという運動をしている。 表面的には全く違う行動なのだが、煙草の利権者から見れば、 どちらも等しく彼らの収益を減少させる行為である。 だから、身の危険を感じるのである。 私の場合は、個人情報は伏せ、ウェブサイトもユーザー情報を特定しにくいものを使用している。
しかし、Nさんは、かなりの個人情報を出してしまった。 これは私から見ると非常に危ない行動である。 インターネットサービスプロバイダの情報漏洩で大騒ぎするほど現代社会は個人情報の開示には敏感である。 ネットに氏名や住所等を晒すのは、襲ってくれと言っているようなものだ。 だから、私はこのような個人活動を 行う限り絶対に自分の個人情報を公開しないし、当然他者の個人情報も公開しない。

告白すると、この活動について、家族を含めて自分の知人には一切知らせていない。 自分はこのような活動をしている人だという色眼鏡で見られるのは嫌だし、 また、変なところから情報が漏れて嫌がらせをされたり、実際に襲われたら洒落では済まされない。

家族についてもは何となく照れくさいところもある。 但し、家族が私のページを見た場合は、一目で分かるようにメッセージを仕込んであるので、 見付かるのも時間の問題だろう。 私の家族も私以上に煙草を憎んでいるので、理解が得られることは分かっている。 そのときは共同管理人でもやってもらおうかと思っている。

最後に纏めると、読者も含めて、個人情報の取扱いは慎重に。ということである。 ネット上に投稿するときは、本人を特定できないようなハンドル名を使用し、 また、訪問先によってハンドル名を使い分けるという対策も必要だろう。 自分もタバコ関係の掲示板には、同じハンドル名を使用するが、 それ以外では訪問先によってハンドル名を変えている。 何故なら、全然関係ない場で、タバコ廃絶論者という色眼鏡で見られるのは好ましくないし、 同じハンドル名を使用すると、それだけ個人情報を特定されるからだ。
ペンによる(最近はキーボードかも)正論は有効だが、人間は暴力に弱い。 確かにペンは剣よりも強いが、ペンを使う人間は剣よりも強くはないということだ。 ペンでの仕事は、その著者の死後も残るが、だからといって死んでしまってもいいということにはならない。 何故なら全ての議論の前提に生存権があるからだ。

今のような異常な犯罪が多い世の中では、犯罪への遭遇そのものを避けるべきだろう。 個人情報の取扱いは慎重にしたいものだ。

タバコと没個性

2004/04/19

毎度飛躍の多い話で恐縮ではありますが、一つの意見だと思ってお読みください。

本文のところで煙草にはマインドコントロールする効果があるのだろうかということを書いた。 その後、実際の社会生活を見たりウェブでの情報を読んでいて、 実際に国家がタバコによってマインドコントロールを試みたのではないかと思うようになった。

さて、 今年も4月になって新入社員らしい人々を多く目にするようになった。 別に名札が付いている訳ではないのだが、何故か新入社員であることはすぐに分かる。 理由の一つは皆同じような恰好をしていることだが、それ以上に分かる理由は集団で行動するということだ。 先日、黒っぽい背広の集団が、コンビニの吸殻入れを排煙場として利用していた。 別に全員が発煙者ではなかったようだが、何故かまとまっていた。 特に情報交換をしている風でもなくただなんとなく放煙現場にいるだけだった。 このような行動は、傍から見ていると、その多くが目的意識も無く、 先頭についていっているだけのように見える。 実は、新入社員だとすぐに分かるのはこの特長によるところが大きい。

この光景から思い出したことは、もう20年以上も前の、荒れた学校だ。 その場に居た訳ではないので、報道から知るだけだが、 会社で働くようになってその世代の人々を受け入れたことから概ね想像がついた。 その世代には発煙習慣のある人が多かった。 彼らは成人ではなかったので止めるように注意を促したが、 その場では止めるものの習慣を断ち切る意思はさっぱり見せなかった。 どうして吸煙するのかと尋ねたところ、"皆やっているから..."という理由が主要因だった。 恐らく彼ら世代の一部は、学校時代には、"皆やっているから"校舎のガラスを壊し、 教師に暴力を振るい、弱いものや協調しないものを苛めたのだろう。 発煙もこの時代の無法行為の一部だった訳だ。 こうした集団心理は恐ろしいもので、暴動や略奪などの原動力になっているのである。

ここまでで書いた内容からは、煙草の問題とは関係が無さそうに思われるだろうが、もう一つ書きたいことがある。 それは、戦時中の煙草の習慣である。 私は戦後生まれなので、戦時中のことは知らないが、かつては映画やドラマなどで、 戦時中の様子を扱うものが多くあった。 実際には脚色もあるので、これを正として扱うことはできないが、その中で、兵隊が上官に煙草を貰う場面があった。 また、煙草は国家からの支給品という描写があった。 また、今でもドラマでは容疑者の取調べ中に容疑者にタバコを渡して自白させようとする場面をよく見る。 庁舎を全て禁煙にした長野県でも、このような理由で取調室だけは禁煙の例外なのだという。

ここで何を云いたいのかというと、タバコによって連帯感を煽っているように感じるということだ。 荒れた学校の例では、禁止されている吸煙という一線を踏み越えたので"これでお前も無法仲間だ"、 戦時中の例では、有難い煙草を賜って国家に忠誠心を誓う、最後の例では、容疑者に煙草を渡して、刑事も容疑者も" お互いタバコ仲間だ。腹を割って話そうよ..."、 という具合だ。

実は、このように考えてみると、日本人が没個性だという主張が、タバコによって関連付けられてくるのである。 本当なら自分に主張があれば、"仲間"からタバコを勧められても断ればいいのだが、仲間外れにされるのが怖いので、 簡単にそれを受け入れる。 そしてその一線を越えたら仲間だという、不可思議な連帯感が芽生える。 これは、国際社会を目指すには大きな障害になる。

筆者は以前、米国で生活をしていたり、外国人の同僚と仕事をしていたことがあるので、 一部ではあるが、アメリカ人やその他の外国人を知っている。 特にアメリカ人は、概して自己主張が強い。 そして同時に他者の主張も受け入れる傾向が強い。 すなわち、自己を主張することは、他人を受け入れるということ等価だということを体で覚えている。 これに対して、"タバコの一線を踏み越えて無法仲間だ"と思っているような人は、自己主張も無く、 当然他人の主張は認めないので、 意見の違う人を差別したり苛めたりする。

最近は、こうしたタバコによる連帯感強化策は、国家が意図的に行ったのではないかと思うようになった。 若い頃からタバコ漬けにして、連帯感を煽る、そして 個性のない人間を育成する。 ところが政府もこれは失敗だったということにどうやら気付きつつある。 また、個性を殺すと、競争力のある人材が育たないということに社会も気付きつつある。 単なる単純作業しかしないのであれば、人件費は低いほうがいいのでそれは、 物価の低い国で行ったほうが効率的だということだ。 現に十数年前は日本でとれていた国際的な仕事が今は取れなくなってきている。

国家が今後どのように進むかは興味深いところであるが、今は個性を育てる社会に変わりつつある境目でもあり、 そのように育てられた子供は、"タバコで連帯"なんて馬鹿なことは言わないだろうし、 それ以前にタバコによる膨大な損失については、国家も認識している。

こうしたタバコによる害を一刻も早く食い止めたいと思う。

"嫌煙権"の終焉

2004/04/22

最近国家運営等の話題が賑やかだ。 例えば最近は、イラクへの派兵問題・人質解放問題や年金問題等様々なものがある。 これらは本質と離れたところで議論をしている。 だから今のような議論をいくら続けても、実際の問題の改善には全く結びついていないと感じる。 これらの議論はタバコ問題と本質的には同じなのだと思う。

例えば、年金の問題が盛んに議論されている。 どれも財源ばかりに目を向けている。 年金とは何なのか、本質を考えれば結論は明らかではないのだろうか。 筆者は既に解決策を考えた。 年金を恩給と一本化してしまえば良い。 役人も自分に関係ない泡銭だと思えば幾らでも無駄遣いするが、自分の金だとそうはいかない。 そもそも、そういう問題を考えるのは公務員の仕事ではないのか? 公務員に正しい仕事をさせる方法を考えればそれで解決してしまう。 これは、
リンク にも紹介した私立島守学園の主張と同じだ。 島守さんの同僚の喫煙者は、他人の健康のためにはタバコを止めないが、自分の僅かな金のためにはタバコを止めるという。 公務員も、国民の年金は無駄遣いするが、自分のための僅かな金 (恩給は決して僅かではないが、年金の無駄遣いに比べれば小さいものだろう)のためには一所懸命働く。 同じように、支出を削減させた公務員に報奨金を出せば、赤字は激減するだろう。 このようにしておいた上で不足する行政サービスについて、新たな負担を求めれば、納税者だって納得するはずだ。 これは、一般の会社でも同じことだ。 放煙者には、排煙費用を直接負担させればタバコを止める。 税金のように間接的に負担させるものでは効果は無いが直接負担させれば間違いなくタバコを止めるだろう。 また、報奨金を出せばタバコをやめるというのは、既に実例が出ている。

また、本論とは関係ないが、イラク問題は、イラクの人々の平和、延いては世界の平和を目的としているのだ ということを認識できれば、人質解放の費用の問題などは小さな問題であることがわかる。 血税を注ぎ込んで、自衛隊を動因するのも一手だろうが、 民間レベルでイラクのために活動しようという人が人質になり、そのためにカネがかかったといっても それを以って怪しからんと断定するのは如何なものだろうか。 報酬を受けて、多大な税金を必要とする自衛隊と比較すれば些細な金額だろう。 こういった人々を非難するのであれば、イラクの平和に貢献したかどうかを論じるべきで、 救出にカネがかかったとか、態度が気に入らないとかいうのは主要な問題ではない。 自衛隊の行動がイラクの平和のためにどれだけ貢献しているか、また、 人質になった人々がどれだけ貢献したかと比較した うえで非難するのではなく、 感情的な議論だけすすめても本来の目的には何の貢献もできないことは認識すべきことだろう。

さて、横道から本道に戻る。
以前に用語のところで書いた通り、嫌煙という言葉の登場は、タバコ社会に一石を投じる大きな一歩だった。 ところが、今度は嫌煙という言葉の表面を捉えて、 逆に、我儘だという印象を演出するのに使われるようになってしまった。 筆者は元々嫌煙という言葉が嫌いなので、そのような用語は使用しないし、 間違っても嫌煙者であると自称することはない。 しかし、今でも嫌煙という言葉を使用しているウェブサイトがあまりに多い。 そこで今回は、嫌煙、嫌煙権、嫌煙者等の言葉には、引退してもらおうという提案をしたい。

嫌煙権というものは、敢えて特別な名称を与えるべき概念ではなく、 憲法25条1項で保障される生存権(すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する)と、 同13条で保障される幸福追求権(すべて国民は、個人として尊重される。 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、 立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする)で全て説明できる権利である。 13条については、簡単に書けば、人の生活に煙を突っ込むような干渉はしないでくれということだ。 だから、何も嫌煙権などと特別な権利を主張しなくても憲法で保障されている当然の権利なのである。 また、憲法25条2項では、"国は、すべての生活部面について、社会福祉、 社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない"との文言があり、 健康増進法などは、これが根拠になっていると考えることができる。 そもそも、毒入り煙が存在するような不衛生な状態を何十年も放置してきた国の責任はどうなるのか、 憲法25条違反も甚だしいのである。

では、"嫌煙権"をなくしてどうするのか? これは簡単なことだ。単に、既に述べた、排煙権(または大気汚染権か環境汚染権)を反対に使用するだけだ。 嫌煙権という特別な権利があるのではなく、生存権を侵害する汚染権をどうするかという本来の議論に戻るだけだ。 一部の人々の財産のために侵害されてきた生存権をどうするか、 それだけを議論すれば全てはっきりすることである。 嫌煙権という用語は、議論の摩り替えに屈服したといういう間違った歴史を証明しているものだ。

何度も主張しているように、議論の摩り替えは絶対に止めなければならない。 議論は常に本質に戻るべきで、これが全ての問題を解決する糸口であると思う。

煙草を吸わせろと云われたら

2004/04/25

発煙習慣者に煙草を吸わせろという要求を受けることが結構多いらしい。 先日も、リンクで紹介している社会の早期分煙化の掲示板でも、会社を経営しているという方から、 会社を禁煙にしているが問題はないのかというお悩みの投稿を読んだ。

発煙習慣者から要求される状況もいろいろだと思う。 以下にこのような要求を受けた場合の対処方法を考えてみたい。

(1)レストラン等の施設管理をしている場合
"健康増進法で決まっている"という理由でやんわり断る。議論はしないほうが良い。 禁煙スポットを応援しようという項で書いた通りの方法が良いと思う。 下手に議論をして相手に恥をかかせるのは良くないという指摘を読者の方から頂いた。 さすがに最前線におられる方の言葉は重いと思う。

(2)会社の従業員から要求を受けた場合
今は、発煙習慣者を雇用しないという会社もある位だし、 そういう人には辞めてもらっても人材は幾らでも確保できそうな社会情勢ではある。 しかし、関係が悪くなっても良くないので、いくつか方法を提案したい。 最もよくありそうな場合である、経営者の立場から、職場の完全禁煙または排煙場の廃止を通告する場合について考える。

(例1)

○×株式会社 従業員各位

当社は、従業員の健康を配慮し、2004年5月1日より社内を全面禁煙とすることを決定しました。

この措置によって、従業員全員が、職務中の煙草の煙による被害から解放され、職務に専念できるようになります。

規則を破った場合には、懲戒の対象となりますので、心おきください。

尚、社内を全面禁煙にすることにより、経費の節減ができますので、下記の金額を従業員に特別一時金として支給します。


(1)非発煙習慣者
私生活で全く煙草を吸わない者または社内で発煙したことのない者にあっては、金10,000円を支給する。

(2)発煙習慣者
発煙習慣者にあっては、金1,000円を支給する。


(例2)
○×株式会社 従業員各位

経費削減により、2004年5月1日より、排煙場を全て撤去することに決定しました。 この措置により、以降は社内が全て禁煙となります。

今後は、煙草を気にすることなく職務に専念できるようになります。

規則を破った場合には、懲戒の対象となりますので、心おきください。

尚、この措置に不服のある者は、文書により、総務部長まで通知ください。 今回の措置は経費節減の一環とするものですので、文書中に、 排煙場の利用者による費用負担が明記されていないものは受け付けられません。 また、文書は職務時間外に社外で作成したものに限り受け付けます。
また、口頭での問い合わせには一切応じられません。

(例3)
○×株式会社 従業員各位

経費削減により、2004年5月1日より、排煙場の利用を全て有償とすることに決定しました。 利用は、登録制とし、排煙場以外で排煙した場合、また、事前登録のない者が使用した場合は懲戒処分の対象となります。 利用額については下記の通りとし、利用料は下記固定額を前月前払いとし、同変動額を当月実績清算とします。



(利用料固定額)

次式により計算します。

固定額=(排煙場賃貸料相当額+排煙場施設電力費+排煙場施設維持費)÷登録者数

(利用料変動額)

登録者は、タイムカードを使用して利用するものとし、下記を当月の賃金より差し引かれることに同意します。

変動額=利用者基本給月額÷規定勤務時間×利用時間

尚、上記利用時間は勤務時間から差し引くため、賞与の計算にも影響します。 また、タイムカードを使用しなかった場合は、懲戒解職処分になりますのでご注意ください。



実際には、業務がこなせていれば、当人の習慣についてあれこれ言うことはないのだが、 現在の習慣の元では不公平過ぎる感が強い。 少なくとも上記の(例3)については、不公平状態の算定額として妥当な線であろう。

道徳の死

2004/04/29

今まで道徳という言葉はこのページでは使ってこなかった。 しかし、リンクで紹介した島守さんのページを読んでから、道徳について考えようという気になっていた。 そして最近島守さんから直接指摘を頂いたので書いてみようという気になった。
道徳は全ての基本だと思う。道徳なく法律だけで人を縛ろうとしたら、霞ヶ関ビルにも入りきれないほどの法令集が必要だろう。 そもそも道徳とは何かというとこれは決して簡単な問題ではない。 私は道徳について議論するほど博学ではないので、分かる範囲で記述することにする。
道徳とは、"国語大辞典(新装版)小学館 1988"によると、

どうとく(ダウ‥)【道徳】
1 人間がそれに従って行為すべき正当な原理(道)と、その原理に従って行為できるように育成された人間の習慣(徳)。 はじめ慣習、風習、習俗の中に現れるが、人間の批判的な自覚の高まりとともに、慣習、習俗を批判、反省しながら、 慣習から分化した精神的規範や規準として現れる。
2 道徳教育2を行う教育課程。
3 老子の説いた恬淡虚無(てんたんきょむ)の学。もっぱら道と徳を説くところからいう。

のように定義されている。 私にとっても分かりやすい説明ではないが、私の理解だと、人はどのように生きるべきか、 常に自問自答しながら自己を研鑽することのように思う。 しかし、これでもまだ議論は難解すぎると思う。
そこで、道徳以前の考え方として、"他人に迷惑をかけないこと"とか "他人が嫌なことをしないこと"を道徳の大前提として議論したいと思う。 道徳が高尚な学問であったら自分を含め多くの人が議論に着いてこられないと考えるからだ。

ところで、道徳と相対するものに法規範がある。 学術的には極めていい加減な説明だが、ごく単純に書くと日本の法体系では、 憲法という最高法規があり、その下に、法律(と条例)があり、更に法律の下に、政令や省令などの命令がある。 通達や訓令をこの中に入れるかどうかは微妙だが、私はこれらは法規範とは別なものだと理解している。 但し、通達や訓令もいわゆる行政法で扱われるものなので、法規範に入れたほうが良いのかもしれないが、 ここでの議論には関係はないので省略する。

では法規範の中に道徳はどのように扱われているだろうか。
私が、ごく普通に憲法を読んだところ、前文の中に次のようなくだりがあった。

日本国憲法前文から

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、 普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、 他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

この内容は政治道徳についてであって個人の道徳についての記述ではない。 しかし、これを個人の道徳の問題に置き換えると興味深い内容になるのでこの点は後述する。

また、道徳という用語は直接使用されていなかったが、次の条文も目に留まった。

日本国憲法から

〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。 又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

この条文は道徳という言葉は使用していないものの、個人の道徳について記述されているように読める。つまり、

(憲法条文)
国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない

(国語大辞典(新装版)小学館 1988)
人間の批判的な自覚の高まりとともに、慣習、習俗を批判、反省しながら、

という一致が見られる。

この条文は下記のように読める。以前に学校で習った内容もこのようなものだったと記憶している。

"憲法で保障されている権利は、ただ単に享受すれば良いものではなく、国民が努力して維持していかなければならない。 また、権利は、公共の利益に反しない範囲で主張できる 限定的なものである。"

随分と長い前置きになったが、云われるまでもなくこのページは、 煙草の問題を考えることを目的にしたものなので、本論に移る。

放煙者や強煙者が主張する"喫煙の自由"というのは、憲法題12条によって明確に限定された権利である。 したがって、飲食店や往来などで放煙するのは、権利の濫用に当たり、明白な憲法違反である。 また、このページでも既に書いたように、放煙や強煙は、憲法第25条第1項で保障される生存権を侵害する権利であり、 正当化される自由ではない。 別な言い方をすれば、"喫煙の自由"="自殺の自由"に限定されるものであり、"心中の自由"や"他殺の自由"ではないのだ。

更に、上述の憲法前文にある政治道徳を個人の道徳に置き換えて読めば、 "われらは、自分のことのみに専念して他人を無視してはならないのであつて、個人道徳の法則は、普遍的なものであり、 この法則に従ふことは、自分の主権を維持し、他人と対等関係に立たうとする各人の責務であると信ずる。"となるので、 これも他人を無視して放煙することが、憲法の精神を無視しているという根拠にもなる。

放煙者が、"政治と個人は違う"という反論をすることは予め予測できる。 しかし、この前文の精神が個人に当てはまらないと結論付けることは如何に不自然であるか、子供でも分かることだろう。

ところが、こんな憲法違反の放煙行為が現実にはまかり通っている。 その理由は、これらの憲法の条文を受ける法律がないからだ。 皆様がご存知のように憲法には罰則規定がない。 したがって、憲法の条文を受けて、刑法や刑法の特別法などで、罰則を設けなければ、取り締まることができないのである。 国家は煙草関係者のためにこうした憲法違反の放煙行為や強煙行為を放置してきているのである。 放煙行為に対する罰則付きの法令は、私が知る限り唯一千代田区の生活環境条例があるだけだが、 これも、生存権を受けたものではなく、一般の迷惑防止程度の極めて中途半端な条例である。 また、健康増進法には、罰則さえもない。

蓋し、罰則付きの法律がなければ何をやっても良いという人が増えたのは、道徳が崩壊したことを意味する。
道徳が崩壊したということは、何でも法令で縛らなければならない、住みにくい世の中になっているということだ。
煙草の諸問題の項で書いたように、道徳の崩壊を助長する煙草の存在は、 世の中の崩壊を促進する病原菌なのだろう。

息絶えつつある道徳を復権させ、住みやすい世の中をつくってゆきたいと考える人は減ってしまったのだろうか。 これは、憲法第12条を守ることでもあるのだ。

このページを読んでおられる方は、是非道徳の復権について一緒に考えましょう。

憲法記念日後に考えたこと

2004/05/09

今年も憲法記念日が終ってしまった。 実は、恥ずかしながら、憲法のことはあまり頭のなかになかった。 憲法の問題と言えば、第9条が有名で、考えさせられることも多い。
今年は、イラクへの派兵の問題が焦点だった。共産党や社民党は、従来と同様の主張だった。 その一方で、米軍のイラク人捕虜の虐待問題も浮上し、改めて憲法問題の重要性を感じた。
近年は、憲法改正(改悪か?)も視野に入れた風潮となってきているので、自分としては危機を感じる。 改めて憲法を見直してみると、現行憲法の素晴らしさを感じるからだ。

憲法第9条は、戦争や軍隊の放棄を唱ったもので、現行の自衛隊の存在などは、 子供が最初に憲法を教わった時点で不自然さを感じるものだろう。 しかし、様々な解釈があり、どれも傾聴に値するものなので 単純に憲法違反だと一刀両断してししまう主張も受け入れられるものではない。 そんなこともあって、昔勉強した憲法の教科書を押入から出してきた。 家族の使用した本も含め、ハードカバーの立派な本が何冊も出てきたので、放ってあった自分が恥ずかしくなった。 日常生活に役立つ訳ではないと自分に言い訳をしながら、そのなかで自分が最もよく利用した書物を読みなおしてみた。 今回読みなおしたのは下記の本である。
伊藤正己, "憲法", 弘文堂, 1990, ISBN4-335-30036-0
この本を参照した理由は、当時の他の本と比較して多少詳しく記述されていたということである。 また、この著者の淡々とした書き方が自分にとって好ましいと感じたという理由もある。 他の本は、他人の推薦で買ったものが中心だが、結局しっくり感じなかったので部分的にしか読んでいない。 この本もかつては結構時間をかけて読んだのだが、改めて読みなおしてみると、 残念ながら自分の理解力と記憶力となさを痛感させられることとなった。 とりあえず今回は、この本を参考にしたが、これはあくまでも考え方の参考にしただけであって、 この本の主張を援用している訳ではないので、その点はご注意ください。

これと関連する話として、最近、複数の掲示板にマルチポストの形で、分煙に対する意見を問うものがあった。 そのなかで、喫煙権と基本的人権の区別ができていない記述があったので、某掲示板でいろいろと問いただしてみた。 結果としては、従来から"歩き煙草に一言云いたい"などの掲示板で議論されてきたのと全く同じ結果で終ってしまった。
その内容をまとめると、

(発起人)
喫煙権と非喫煙権という基本的人権の対立について考え直し、 どのように分煙を進めるべきか議論したい。(はっきり云って筆者には意味がよく分からなかった)

(Stinks)
そもそも貴方のいう人権とはどの条項を指しているのか?

(発起人)
憲法第13条の自由権をライフスタイルの自己決定権として考え、 これが喫煙権の根拠になっている。 これは、喫煙者と非喫煙者との権利の衝突だ。

(Stinks)
貴方の云う自己決定権(喫煙権)は、誰にも迷惑をかけないところで存分に行使できる権利であることは確かだと思うが、 喫煙権をライフスタイルの自己決定権として行使するということは、 煙を吸わされる側のライフスタイルの自己決定権を否定するものであり論理が矛盾していないのか?
結局、貴方は、"どれくらいなら我慢して貰えるか"と問うているのか?

(発起人)
これ以上議論しても無駄だ。

このページをお読み頂いている方は、この発起人がどう矛盾しているの説明の必要がないと思う。 この議論の内容は、既に様々な掲示板で議論されてきたものと殆んど同じものだ。 決して筆者のオリジナルではない。 因みに、この後、別の方から、発起人に対する抗議の投稿があった。 どれも自分自身で云おうかと思っていたことを別のもっと良い表現で代弁されたものだった。 煙草の問題を考えている人には共通の問題意識があるのだろう。 筆者も終結宣言を出そうと思っていたところ、発起人からも終結宣言が出たので、 この記事をアップロードした後に、終結しようと思う。

こういった議論は本当に時間の無駄である。 何故なら、憲法その他の法律のどこを探しても、他人に吸煙を強制する権利の根拠が見当たらないからだ。 古い判例としては、昭和44年に、憲法第13条が"喫煙の自由"を保障しているというものがあり、 これをその根拠とできる可能性が残っているのだが、 それから既に、相当な時間が経過しており、既に判例を修正すべき時期に来ている。 何が違うかというと、現在では既に、煙草の煙が生命に害を及ぼすことが世界的常識になっており、 好き嫌いのレベルで議論することには合理的な疑いがあることだ。

上記で示した伊藤の"憲法"には、この点についての詳細な記述はない。 簡単にまとめると、憲法第13条(幸福追求権)は、包括的人権として、新しい権利の考え方の根拠にはなるが、 裁判で争ったときに直ちに保障される具体的権利となるかどうかについては疑問がある。 ということで、即ち、憲法第13条を援用して、権利を主張しても、 その権利が具体的な法律で保障されているものでない限り、直ちに認められるものではないという考え方だ。 ちなみに、伊藤は嫌煙権を幸福追求権に含める考え方をこの本の中では否定しておらず、 喫煙問題については殆んど紙面を割いていないので、どちらの主張にも直ちに援用できるものではないので注意を要する。

上記の論争を通して気づいたことがある。 それは、安易に喫煙権とか基本的人権という言葉を使う人は、憲法など全く読んでいないし、 また、法学についてまったく勉強していないということだ。 だから、法律を根拠とする論争になると必ず、最後は"話にならない"と云って逃げる。 これは、今まで見てきた論争で全て共通していたことだ。

基本的人権という用語には注意が必要である。 伊藤も基本的人権について記述するのに相当な紙面を割いている。

基本的人権とは、憲法第97条で明示される通り、国家権力によって侵されることのない永久の権利である。 人権という概念さえない時代からの努力の成果として、人々が国家権力に侵されない権利として獲得した基本的な権利である。 だから、国家権力によって簡単に否定される可能性のある 喫煙権を基本的人権に含めることは根本的に間違っている。 喫煙権のようなものは、国家から付与された二次的な権利であって、基本的人権ではないことは明らかである。 これに対して、筆者も主張するような、煙に侵されない権利の根拠を第25条の生存権に求めれば、こちらは明確な基本的人権になる。 この点を無視して、憲法13条の範囲内で喫煙権問題について論争すると必ず権利の衝突の問題に成り下がる。 しかし、たとえ憲法13条の枠内で争ったとしても、上述のように、他人に吸煙を強制する権利の根拠は見出すことができない。
いずれにしても今後この問題について争うときは、生存権に論拠を求めるべきだろう。 特に最近は、煙草の害毒性は公的にも表明されており、生存権の主張が受け入れられる可能性はかなり高いと考えられる。

煙草問題もそうだが、今回明らかになった米軍のイラク人捕虜虐待問題も基本的人権について考えさせるものだった。 筆者は第9条で国の交戦権を認めないとしたのは、外国人に対しても基本的人権を認めようと意図だと思う。 今回のイラク戦争で明らかになったことは、戦争というのは公権力による基本的人権の侵害だということだ。 捕虜の虐待には大騒ぎする一方で、元の行為である戦争では大量に人を殺している。 結局国の交戦権を認めるということは、公権力による外国人の基本的人権の侵害を認めるということであり、 少くとも、日本国憲法前文の精神から逸脱してしまうことは確かだろう。
これから第9条について、どのように改正する案がで出てくるのかはわからないが、交戦権だけは認めて欲しくないと思う。 勿論、日本国民の基本的人権の保障の観点からは自衛の戦争について、完全否定する考え方には疑問が残るので、 文言の変更については検討する余地があると思う。
但し、同時に複数の項目について変更するというのは賛成できない。 ついでにいろいろ変更されてしまうと、後々問題が出てくることが予想されるからだ。 個人的な希望としては、憲法の枠内で、運用して欲しいと思う。

蓋し、煙草は多くの人を殺し、即ち基本的人権を侵害し続けている商品であることは間違いがないので、 一刻も早くこの世から抹消して欲しいと思う。 これは、基本的人権と国家権力に与えられた権利の重さを比較して得られる簡単な結論に過ぎない。 憲法の改正以前に決着すべき問題だと思う。

タバコを止めてみよう

2004/05/15

暫くの間堅苦しい話題が続いたので、今度は柔らかい話題にしようと思う。

このページを読んでいる吸煙習慣者の方がいるとは思えないが、 もしも、タバコを止めたいと思っている方がおられればこの話題は是非読んで頂きたい。 統計かどうかも分からないし、たとえ統計データだとしても信頼性はないと思うが、 吸煙習慣者の7割位はタバコを止めたいか、または、タバコを止めたいと思ったことがあると云う。 しかし、現実にはタバコを止めることのできた人は少ないのではないかと思う。 巷を見れば、禁煙用の薬品とか、用具とか、禁煙を勧める本などは多く溢れている。 また、筆者のホームページにも下手な英語でタバコを止める方法を提唱している。 筆者も書店でアレン・カーという人の書いた"禁煙セラピー"という本を手にとって読んでみた。 参考書として買おうかどうか悩んだ末に結局買わなかった。 理由は簡単なことで、禁煙に成功したという筆者が、排煙者時代の罪を詫びる記述が見つからなかったためだ。 禁煙することの第一の意義は、人にやさしくなるためだと思う。 自分のために止めることしか頭にない人は、この一連のページを読んで考えて欲しい。

さて、これから書く方法は、自分の経験に基づいて提唱するもので、コストはゼロ、 しかも確実に止められるものだと思う。 それは、自分との戦いであり、負ければ敗北者となるが成功すれば自信がついて その後の仕事や社会生活にも好影響を与えることができる方法だ。 タバコを止め、マイナスからゼロに戻すのではなく同時にプラス方向に変えてしまおうという試みなので、 悩んでいる方は是非試してみてほしい。

まず、このページを躊躇なく読めるという人であれば、特に問題はないだろう。 そういう人は、例えタバコを吸っていても、自分を制御できる人だからだ。 タバコを止めたい人にとって、まず必要なことは、現状を認識することだ。 現状を知るためには大袈裟なことをする必要は何もない。 先ずは自分について考えてみることだ。別にタバコを吸いながら考えても良い。 まず以下のことを自問自答してみよう。することはたったこれだけである。

  1. タバコはうまいですか?
  2. タバコをに点火する前に周囲の状況を確認したり灰皿を準備しますか?
  3. 周囲の状況に関係なくタバコを吸わないでいることができますか?
  4. いつもタバコやライターを確認してから出かけますか?
  5. タバコを吸いたいけど手元にないときはどうしますか?
これらの質問は、自分にとってタバコが本当に必要かどうか、考えてみるきっかけである。 上記の5項目を考えれば、絶対に、自分が自由意志で吸っていないということに気付く。 そして、その後は全て自分で考えて行動することだ。 1回失敗したからといって諦めてはいけない。 何度でも挑戦することに意義がある。 多くの吸煙者の場合、禁煙を始めても、失敗する日を心待ちにしている。 そして第三者に、禁煙失敗宣言をしてもらうことを待っている。 "ほら、禁煙なんてできないんだよ"、とか、"自分にはやっぱりタバコが必要なんだよ" と自分に納得させたいという心情がある。 だから、周囲の人は、何度失敗しても成功するまでやさしく見守ってあげることが重要だ。 間違っても禁煙失敗宣言なんて出してはいけない。

自分の経験から云うと、タバコは決して旨くない。 しかし、一旦始めると切れたときになんとなく落ち着かなかったりイライラしたりするものだ。 それで吸ってみるても別にうまい訳でもない。 "なんだ。本当は吸わなくても良かったんじゃないか!"と思っても、 同じことを繰り返すようになる。 そしていずれは"自分は吸わされていたんだ!"ということに気付くようになる。 そのことに気付くと、次は、自己嫌悪になる。

筆者の場合、結局、自分を制御できない自分がそこにいたということに気付いた。 そして、持っていたタバコを全部捨てて、心の中で"タバコなんか止めた!" とつぶやいた。

そうすると不思議なことにその後は特に苦労もなく止めることができた。 全ての自己嫌悪がなくなった訳ではないが、まあ何とか一つは偉くなったという気がした。

強い人が大勢いることは知っているが、それよりもずっと多くの人はあまり強くないだろう。 自分もそのなかの弱い人間の一人だと思う。 全然自分の思う通りにできないし、本当はできるはずのこともできないことが多い。 しかし、それで納得して死ぬまでだらだら生きるのも何か申し訳ないので、 常に小さな1歩でも踏み出そうと思う。この活動もそのなかの一つである。 このページを読んでおられる方の中にも自分のように弱い人間がおられるかもしれないし、 その周りにも弱い人々がおられるかもしれない。 だから、皆、仲良く少しずつでも自分なりに進んでみたらいいのではないかと思う。

話を元に戻すと、タバコを吸っている人の多くは自分が吸わされている、すなわち、 タバコ会社等に貢がされていることに気付いていない。 だから、止めようと思えばいつでも止められるのだと心のどこかで信じている。 また、たとえ気付いていても、それを認めたくないと思っている。 だから、たとえ人に嫌われることを知っていても止めることができないのだ。 そして、ついにはタバコを嫌がることが我儘なのだと、いうように自分を洗脳していくようになる。

しかし、そうは言っても、気付かないところに良心が棲んでいるので、 それがタバコを止めたいという気持ちになって現れるのだと思う。 だから、本当にタバコを止めたいと思ったら、先ずは素直な気持ちになって考えることだ。 この一連のページを全て読むことができれば、もう洗脳は解けている。 勿論、全ての主張に同意する必要はない。 だから、おかしいと思うことは、伝言板に書き込むとか、筆者宛にメールを書くとかして頂ければ、 こちらも真剣に考える心の準備はできている。 しかし、タバコによって洗脳されている人は絶対に最後まで読み切ることができないと思う。 洗脳されている人は、自分に都合の悪い主張は全て否定するからだ。 だから、上記の5項目に自答するうちに何か考えることがあれば、筆者の勧めに付き合っても良い訳だが、 そうでなければ、筆者はどうにもできない。 人の心の中に立ち入ることなんかできる訳がないからだ。

もしも、読者の周りでタバコを止めたいという悩みのある方がいたら 是非上記の内容を伝えてあげて欲しい。 但し、あくまでも本人が止めようという気持ちを尊重することが大切なので、 いきなりこのようなページを読ませたら間違いなく失敗するので注意が必要だと思う。 まずは、タバコによるマインドコントロールを解くことが第一であって そのためには、自分が吸わされていることに気付くようリードしてあげることが重要である。

表示の適性

2004/05/21

今回の話題も用語の改変と類似のものである。 しかし、少々趣向を変えて論じることにした。

最近JRの駅の排煙場が縮小された。 相変わらず喫煙所という表示を使用しているが、これはこれで多少の前進ではある。 しかし、まだまだ改善すべき問題が残されているので、今回は、表示の適性について論じてみたい。

これは以前からのことではあるが、JR東日本は、禁煙タイムというのを設けて その時間は場所を問わず全面禁煙にしている。 しかし、排煙場の不法利用者は、そんなことはお構いなしだ。 そこに排煙場があれば、条件反射として煙草に火をつけてしまう。 吸煙者全員がそのようなことはないだろうが、ルールなどお構いなしの放煙者が目に付くのである。 ここで、単に"彼らは馬鹿だから日本語が理解できないんだよ"と結論付けてしまうのは危険である。 私は、彼らは禁煙であることを承知で放煙しているのだと思う。 このほうが、禁煙であることを知らずに放煙するよりも遥かに悪質なことだと思う。 では、何故彼らがルール無視の放煙に走るのか?

朝、通勤時の中央線に乗ると、

"JR東日本では、禁煙タイムを実施しております。その時間帯は喫煙所を含め全面禁煙になりますのでご協力をお願いします"

というようなアナウンスを聞く。多少文言は違うかもしれないがだいたいこのような内容である。
さて、このページをお読みの方は、このアナウンスについてどう思うだろうか?以下を読む前に、しばし考えて頂きたい。




さて、上記のアナウンスを、筆者は下記のように修正してみた。 このようにアナウンスすれば、内容は同じでも印象は随分変わる。

"JR東日本では、車内及び駅構内を全面禁煙にしております。 一部に排煙場を設置して御座いますが、排煙場の使用は、特定の時間帯に限って使用を許可していおりますので、 使用条件を遵守のうえ使用してください。 只今の時間帯は、完全禁煙となります。"

オリジナルのアナウンスと、内容は全く同じである。 しかし、印象は随分違う。このような表現にすれば、不法放煙者は多少なりとも減るのではないかと思う。

また、同様に、排煙場の表示についても変更が必要である。JR東日本の排煙場は下記のような表示になっている。

"喫煙所", "禁煙時間帯 XX時XX分〜XX時XX分"

しかし、不法放煙者は、排煙場の形状しか見ないのである。 そこにある表示なんか絶対に見ないだろう。排煙場には煙草会社の広告もあるが、多分文字は読まないだろう。 何故かと云うと、"喫煙所"などと書かなくてもそこが排煙場に見えるからだ。 だから字なんか読まないのである。 恐らく本当は、字も読んでいるだろう。それに、禁煙時間帯だって知っているはずである。 しかし、彼らは、自分に都合の悪い文字は決して読まないのだ。というか、読んでいても無視するのである。

何故、知っていて知らない振りをするかという理由は簡単だ。誰も罰則を与えないからだ。 駅職員も、注意する姿を見たことがない。 たとえ、注意したとしても、鉄道公安官が逮捕・連行などするとは思えない。 だから、彼らも平気でルール無視の放煙を行うのだ。彼らの言い訳は、もう既に分かっている。

"あ、そうだったの?知らなかった。"

或いは、こんなのもいるだろう。

"うるせえな。人が煙草吸うのに何で文句言うんだよ。"

後者は、救いようがないが、前者もかなり悪質だ。 しかし、前者に対しては、排煙場の表示を以下のように多少変えるだけでかなりの効果があるだろう。

"排煙場使用許可時間帯 XX時XX分〜XX時XX分"
"これ以外の時間帯に発煙した場合は場合は、鉄道営業法第34条により、罰則が適用されます。"

以上に記した、表示方法の変更は、用語の改変と同じく、見方を変えるものだ。喫煙→発煙、というのと同様、禁煙時間帯→排煙場使用許可時間帯、 と表示を変更するだけで、印象が随分変わる。 だから、発煙が禁じられているのを知っていて知らない振りをする輩にも、 多少の後ろめたさを感じさせることが可能なのだ。 このあたりの放煙者の心情は、"
どうなってるの禁煙の地下鉄駅になぜ灰皿が"とい うコラムに書いた通りだろう。

実は、このような、不適切な表示は、表示者の日本語表現が不自由なためだと考えている。 例えば、ソフトウェアや家電製品の取扱説明書などを読めば、"一体、このマニュアルを書いた人は 日本語を理解しているのか?" と思うことがしばしばある。 また、有名な話では、駅の列車の発車案内の表示で、"次は"と"今度は"という表示があり、 "一体どちらが先に来るの?"と、利用者を混乱させていたというのがある。 また、"山の手線内"に四谷などの中央線の駅が入るとか (分からなくも無いが、数学的には線内 と云えば線上を指すので、 混乱を避けようと思えば、 山手線上または山手線に囲まれた地域内の駅と表示すべきだろう)いうのもある。 最も身近な例は、郵便ポストに口が2つあって、片方が"手紙、はがき"でもう一方が"それ以外、 大型郵便や速達など"という訳のわからない表示がいつまでも改善されずに残っている。 これに混乱した人は多いだろうし、今でも外国人などはさっぱり分からないに違いない。

笑い話のような例だが、20年位前に、 駐車禁止だった場所に一斉にパーキングメータが設置されたときに、 そこに、使用時間帯が表示されていたが内容が理解できなかったので、警察官を捕まえて、 今はこの時間帯に入っていないが、それは、 パーキングメータの使用時間帯ではない=無料で駐車してよいのか、 それとも、駐車禁止という意味なのか、 と質問したことがある。 その警官は、一緒にいた警官数名と相談していたが、結局、答えることができなかった。 そして、"今は取り締まらないから駐めていいですよ"ということだった。

こういう馬鹿馬鹿しい例は数え切れないほど存在する。 最近は、小学生に対する英語教育の是非など真面目に議論しているが、筆者は、 "日本語の分からない大人に、先ず日本語を教育しなさい"と云いたい。
(英語教育の問題については、また、別の機会に触れてみたいと思ってる。)

日本の教育を考える

2004/06/13
最近、パックツアーを購入しスペインに旅行してきた。更新ができなかったのはこのためである。 自分は、こうした主張を続けることによって、少しでも煙草の問題を真剣に考える人が増えるようにと願いをかけて、 ページの更新を続けている。 スペイン等諸外国の煙草事情については、いずれ記そうと思う。 旅行を終えて帰国したら、児童による児童殺害という恐ろしい事件が報道されていた。 今回は、この問題に関連して、日本の教育の問題について論じることにした。

事件の詳細については、覗き趣味のように追ってゆきたくはないし、 なによりもこの事件の詳細を追うことに意義は無いと思っている。 というのは、この事件は非常に特殊なのであって、社会的背景がこのような事件を起こさせたとも断定できないからだ。 このような事件は、過去を振り返れば、酒鬼薔薇の事件とか、いくつか思い出すものはあるが、そう多くはない。 だから、このような事件が起こるのは特別で稀なことであると考えられる。 それよりも、頻繁に報道される、もう少し上の年代による集団暴行・傷害・殺人事件を防止する手立てを考えるほうが 社会的には有効なのではないかと思う。

今回の児童殺人事件で気になったのは、週刊誌の吊り広告で見た、" 子供にインターネットを与えるな"という見出しである。 この見出しを見て最初に思ったのは、こんな希少な事件に対して大騒ぎし過ぎて、愚かな主張をすべきではないということだ。 こんな主張をすることは、インターネットの優位性を壊してしまうだけでなく、 憲法で保障されている言論の自由を破壊しかねないことに気付く必要がある。 自分が重要だと思うことは、子供への情報を大人が制御するのではなく、正当な情報と不当な情報の区別を教え、 自分で判断させることだ。

このページをお読みの方は、既に情報の選別はできていると思う。 しかし、大人であってもまったく情報を選別できない人が大勢居るのは確かだ。 情報のウソを見抜けない人があまりに多いために、未だに、詐欺事件などが後を絶たないのだ。 また、情報のなかには、正しいことを書いていながら、誤った方向に理解を導こうとするものも多い。 例えば、いかがわしい不動産広告などは、一応は法令に違反しないように小さい文字で本当のことを書いている。 だから小さい字で書かれた部分だけ読めば、その他は読む必要がない場合も多い。 しかし、こうした広告主は、自分に都合が悪い部分を小さくで書いているのである。 この小さな字の部分を書かなければ、不当広告として罰せられるためだ。 だから、大きな字で嘘にならないが実質は嘘に等しいイメージを与え、本当のことは小さく書く。 つまり誤った理解を誘導しようというものだ。 このページで書いた、"
都合の悪いことを隠す煙草会社" という主張も、誤った理解を誘導する手口について記述したものだ。

大人になっても情報の選別をできない人が多い理由は、公的な教育が間違っているためだと思う。 不動産広告や詐欺広告を教材として読ませ、情報の選別能力を養うというような、 生きるために必須の教育は全く為されていない。 歴史や古文などを教える余裕があるのなら、まず、このような、基本的な知識を教え込むことが重要だ。 勿論歴史や古文を教えることが悪いと云っているのではない。 この国の国語教育が間違っているために、情報の選別が出来ない人が多すぎると書いているのだ。 国語には、文学を理解し、精神的な高揚を促進するというような目的は当然あるが、 それ以前に生きるための意思疎通の手段という基本的な目的がある。 そこを無視して文学のような応用に入っても、それだけでインチキ文書を判別できる人ばかりではない。 歴史だって無味乾燥な事実を詰め込むのではなく、美術館や博物館めぐりをしたうえで、 面白そうなことだけを教えれば、興味を持つ生徒も増えるだろうが、現在の教育は単なる知識の羅列になっている。

さて、小学校2、3年頃の記憶を辿ると、国語教育について次のような事例があった。

(問題)
下記の2つの文を接続詞で結べ(接続詞は複数選択だったが全ては記憶していない)。
  • 最近校舎の改築工事を行っている。
  • 図書館の利用者が減った。
(学校が用意した正解)
 だから
(自分が選択した解答)
ところで

この問題で、学校が"だから"を正解にすることは、分かっていた。 しかし、それは解答として選択しなかった。 何故なら、この2つの文だけを読んで その関係を書けと云われても、知りようがないと思ったからだ。 図書館を利用しなくなった理由は、読書しなくなったという一般傾向があったのかもしれないし、 図書館を利用せずに買うようになったのかもしれない。 何より、校舎の改築によって図書館に行くのにどの程度支障があるのか分からない。 また、2つ目の文では、利用している人が居ることが明記されているのだから、 利用できないという状態でないことは明らかだ。 出題者の気持ちは分からなくはないが、この2つの文を因果関係として結びつけるのには無理があると考えたのだ。 勿論先生に対しては抗議したが、頭から違うと云われただけだった。 恐らく、ひねくれた子供だと思っただけだったのだろう。

上記の例を挙げた理由は、現在見る騙しの公告が、上記のような学校で教える考え方を利用しているためだ。 その手口は、下記のようなものが多い。
  1. それを契約したくなるような 関連を連想させるイメージを与える。
  2. ところが、それらの関係については書かない。
  3. 本当の部分は小さく書く(詐欺にはならない)。または、書かない(この場合は詐欺)。
他には、訪問販売などで、"消防署のほうから来ました" といって、消火器などを売りつけるのもある。 これは、上記の例では、"消防署"が義務的なイメージを作るものだ。 短い文だが、騙しのテクニックとして同じ手法を使用している。 ちなみに"のほう "は、後からの言い訳のために付けたものだが、これは、インチキ業者にとっては無くても構わない。 何故なら、"消防署から来ました"と言っても、消防署のどこそこの部署に所属しているということにはならないので、 一旦消防署の敷地に足を踏み入れてから来れば嘘を言ったことにはならない。 そもそも消防署の敷地に足を踏み入れなくても嘘がばれることは殆ど無いだろう。 こういうインチキを見抜くのは簡単なことで、販売員の所属部署や電話番号などを具体的に尋ねるだけで良い。 しかし、こうした販売員を目にして"何か変だ"と直感的に思うことが必要だろう。

情報の選別をできない人が多いと、そういう人を騙す人が増える。 そして、犯罪が増え、住みにくい社会になってゆく。 ヤミ金融の被害なんて、大抵は、騙されるほうの過失が大きい。 手口を知っておけば初めから騙されることのない事案が多いと思う。 煙草の問題も、正しい情報を理解できない人が多すぎるために直らずに放置されているのだ。 こうした社会問題の根本原因になっているものが教育だと、ここでは主張したい。

インターネットから得られる情報には、良くも悪くも、正当な情報も出鱈目や騙しも入り乱れている。 筆者自身は調べたことはないが、自殺の方法や殺人の方法を書いているものあるらしい。 だからといって、全て子供から取り上げろというのでは、大人の恣意で子供の自由を奪ってしまうことになる。 それよりも、日頃から正当な情報と不当な情報の区別を教えておくことが重要だ。

自分自身も最近は、インターネットのページを覗いても胡散臭いのがすぐに判別できるようになってきた。 どのようなものが胡散臭いのかというと、
  1. 説明やデータ抜きで、人の知らないようなことを真実だと書いている。
  2. 事実と意見を明確に区別していない。
この他にもいろいろと思い当たることはあるが、重要なのは上記の2点だと思う。 特に重要なのは2番目でありこれは注意して見ればすぐに分かるものであるが、気付かないことも多い。

世の中には、完璧な親など、殆ど居ないと思う。それでも子供は、親などの保護者と共に生活する時間が長い。 親が必ずしも完璧ではないために、学校教育が重要になる。 ところが、学校で効果的な教育ができないと、普通の子供は、正しい知識を得ることができない。 親だって、上述のような教育を受けている訳だから、そんなに完璧にはいかないだろう。 自分のことを少しだけ書くと、両親は、それなりの教育を受けていたにも関わらず、 平気で人種や門地などで人を差別した。 そういう教育を受けてきたのだからしょうがないといえばそうなのだが、そのような言葉を聞くといつも不愉快だった。 そんな自分にとっては、学校などの外部の教育が重要だったが、学校だって、 平気で体罰を繰り返すような時代だったから、いま考えるとまともでない先生も2割位は混ざっていた。 中には平気で虐めを先導するような者もいた。 その当時、比較的強かった自分はなんとか耐えることができたが、性格が変わってしまった子供もクラスに数人は居た。 結局今の自分をつくったのは、まともな先生や友人・先輩達、会社の上司や同僚、それと、放送や書物などの情報源だと思う。

ここで主張したいのは、日本の教育が、重要な事項を無視した独善的なシステムであるということだ。 担当が変わる度に、何かしたという証拠を残すために、学習指導要綱を変え、また、受験システムを変える。 そのような、気まぐれに付き合わされて嫌な思いをした人は相当多いと思う。 そうした失敗を繰り返し、改善されてゆくのならまだ良いが、自分には改善は全く見えない。

では、どのような教育をしたら良いのだろうか。

自分が考えるのは、先ずは国語教育の充実だ。最初に、読書きを教え、次に憲法と道徳を教える。 憲法も道徳も同じく国語の教材として適している。憲法を正しく理解するのは難しいだろうが、 いろいろな解釈を教えることは国語教育にも繋がる。 文章は字面だけ読んで、分かったというものではない、ということを覚えるのは重要なことだろう。 このような教育をすると大学の法学部のようになってしまうが、 本当は法学は社会で生きてゆくための必須の知識のはずだ。 大学では更に進んだ勉強をすれば良い。 それに道徳や歴史を教えるためには宗教についての教育も不可欠だろう。 世界史や日本史は宗教の歴史でもあるし、科学や芸術も、宗教と密接に結びついたものが多い。 一部の宗教を信じさせる義務教育は憲法違反になるが、 各宗教の考え方や歴史を学校で教えるのは違憲ではないので、高校の課程では不完全ながら一部は教えている。 宗教ぬきにして歴史など教えるから、興味が持てないのだ。

また、情報の選別についても新しい教科として与え、子供の頃から、 インターネットという社会についても教育したほうが良い。 別なところでも書いたが英語の教育が日本でうまくいかないのは、一般的な生活には英語の必要性が殆どないからだ。 しかし、インターネットを元に情報を紐解いてゆけば、英語でなければ得られない情報が多いことに気付くようになる。 だから、国際教育などの面でもインターネットは、不可欠な存在になっているのだ。

いずれにしても、通常は起こり得ないような事件を根拠とする、 "子供からインターネットを取り上げろ"というような暴論は、到底容認できない。

喫煙型行政

2004/06/19
焦点だった年金法案も無事可決して、国会が閉幕した。しかし、年金改正も穴だらけで、全く改善になっていないという。 今後の国民の興味は、次の選挙に移ってゆくだろう。そして、願わくは、一旦改正年金法を取り消して、議論しなおして欲しいと思う。

"喫煙"という用語を否定しておきながら、ここで敢えてこの用語を使用したのには訳がある。 以下をお読み頂ければ、真意がお分かり頂けるものと思う。

さて、今回の話題を年金の話で始めたのには訳がある。 最近、このページでいろいろな事を好き放題書いてきて、気付いたことがある。 それは、国家の問題、特に立法と行政の問題は 煙草の問題と一定の共通点があるということだ。 その共通点とは、全て、最重要な事実を隠して議論していることだ。 本稿のタイトルは、行政としているが、本当は立法も含んでいる。 しかしながら、現状では立法と行政の癒着が著しく、実際には法案の殆どを行政府が作成しているので 正確な用語ではないが、まとめて行政と呼ぶことにした。 今回の年金の法案も可決した後で、人口推定の試算が違っていたことが問題になっている。 これは、後から気付いたのではなく、意図的に隠していたことは誰の目にも明らかだろう。 役人にとっては、年金など自分にとってどうでもいい問題なので、破綻しようが構わないという姿勢が見える。 また、無計画の上に無駄遣いを重ねてそれが年金破綻に加担したからといって 弁償させれれるわけでもないから、年金の泡銭を使ってお手盛りの福利厚生施設を作るなんていうことは 当たり前だ。 既に書いたように、役人個人単位の最適化が国家の最適化と同じ方向を向くような方策を考えなければ 改善などされるわけはない。 今の日本は、破綻に向かって突き進んでいる。 やはり、我々国民は、選挙や国民審査を通じて正しい立法、司法担当者を選ばなければならないのだ。

では、以上の話を煙草の問題に置き換えるとどうなるのかというと、煙草の議論の場合、いつも意図的に隠すことが、

  • 煙草は毒である
  • 煙草は人を病気にする(煙草は人を殺す、煙草は人を傷つける)
  • 煙草は大気汚染(特にダイオキシン)やエネルギ浪費の原因である
  • 等々
これらの本質的な事実を抜きにして議論をすすめるので、いつまで経っても、好き嫌いの問題に摩り替えられてしまう。 何度も書いているように、煙草の問題は好き嫌いの問題を超越している。 上記に上げた、煙草の本質を認めた上で、本当に必要かどうかを議論しなければならないのに その部分はひた隠しににしている。 だから、いつまで経っても終わらない論争なのだ。 上記の年金問題は、まず、必要な行政サービスを決定し、支出計画を決めた上で、資金計画を定める。 このような手続きを踏まなければどうにもならないことだ。 一体今後幾ら支出するのか、また、そのためには今後どのような資金計画をするのか、そこを議論しなければならない。 当然、今までに無駄遣いしてしまった分は、返却させるなどの法的手段を考えなければならない。 これは、新しく法律を作っても、罪刑法定主義の建前からは、過去にさかのぼって執行することはできないので 現行法の枠内でできるだけのことをするしかない。 こういった議論は専門家に譲るとしても、今後の無駄遣いを無くすためにはすぐにでも実行しなければならないことだ。

では、このような問題を議論するにはどのような方法が良いのだろうか。 その方法の一つには、QC手法がある。その中でも、ブレインストーミングや特性要因図などがある。 特性要因図とは、右向きの魚の骨のような図で、頭の部分に現状の問題点を書き、そこに向けて、大きな矢印を左側から向ける (背骨の部分)。 そして、大雑把に分類した要因を背骨に向けて矢印で書く(小骨)。 更に、それらの要因となっている事実を、小骨に向けた矢印で書く。 さらに小骨の下に孫骨、曾孫骨と限りなく書いてゆく図である。 この図を見て、実際に対処可能な要因は一項目ずつ潰すのが重要であり 難しいものは後回しにする。 特性要因図に近いものは、既に委員会などで作成されているだろうから、実際に公表して欲しいものだ。 しかし、もっと重要なのがブレーンストーミングと呼ばれる方法だ。
ブレインストーミングでは、参加者が、考えれれる限りの解決法を捻り出す。 その方法には制限がない。 発案の段階で否決しないことが最も重要だ。 何故なら発案の段階で否決してしまうと、参加者の発言がなくなってしまうからだ。 一見実施不可能に見えても本当に実施不能かどうかは、考えて見なければわからないのだが 管理者は即座に否決してしまうことが多い。 大切なのは、今まで制約と考えていたことが、実は制約でないことがあることだ。 制約として設定されていたものでも、制約を解くことができれば大きな改善に繋がる。 これは、最適化の重要なポイントだ。
本当は制約ではないのに制約として考えられていたうちの大きなものは、次のようなものだろう。

  • 既に決まった
  • 法律でそうなっている
  • この部署のメンツにかかわる
  • 他の組織から文句が出る
  • 担当者のメンツが潰れる
  • 今まで許されていた無駄使いができなくなる

"法律でそうなっている"というのは一見侵し難い制約のように見えるが これは、国会で法改正すれば簡単に取り払える制約であり、本当の制約ではない。 例えば、刑法の第23章で明示的に禁止されている賭博や富くじだって、現に特別法を作って合法にしている (競馬や宝くじなど)。 それに、法律の条文も解釈が難しいので、法解釈だけで運用を変えられることもある。 特に、憲法でそうなっている、といった類は、解釈が不適当なだけということが多いだろう (既に述べたような、煙草を吸う権利が基本的人権であるといった主張は、憲法の不適切な解釈の典型例だ)。

考えればきりが無いほど、仮想的な制約を実際の制約と混同していたことがあった。 既に決まっていたからといって、必要が無くなったダムや明らかに採算のとれない高速道路などを延々と作り続ける といったことは少なくないし、個人のメンツでことが進むなんていうことは日常茶飯事だ。 だから、役所にとって都合の悪い大臣人事が為されたり(国家にとって都合が悪いのとは 別問題)、委員会で行政の決定を覆す結論が出ると、事務次官が格好付けて辞任したりするのだ。 個人のメンツより、国家の運営のほうが重要なことは、明らかなので、 メンツがつぶれたことで、その人個人を非難するような風潮は止めなければならない。 だから、ブレインストーミングは特に重要なのだ。 メンツに拘リ過ぎた場合の罰則をつくるということも必要かもしれない

喫煙という用語は、その本質である、発煙=汚染という事実を隠すために使用されている。 上記のような国の政策も、本質を隠すことを大前提としているものだ。 よって、皮肉を込めて、筆者はこれを喫煙型行政と命名することにした。

煙草の問題を議論するのなら、やはりこのように、特性要因図を描き、ブレインストーミングを実施するのが良いことだろう。 結論は、当たり前のところに落ち着くと思うが...

自動車の排ガスによる害について

2004/06/26

このページも発足後1年を経過した今年の5月位から、意識的ではないが、方針を変えてきたように思う。 最初の頃は、煙草に対する敵意が強く現れていたが、最近はそれよりも寧ろ煙草を許容する社会に対して 挑戦していると思う。 所謂嫌煙サイトは、数多い。 しかし、このページはそういうものを目指さずに煙草の問題点を考えることから 社会を変えてゆこうと訴えることに方針を決めた。 だから、今後も社会の矛盾点を指摘し、対策を考えてゆきたいと思う。
それには、このページをお読みになっている皆様のご協力が是非とも必要なので 間違いの指摘やアイデア等を頂ければ幸いです。また、知人等にこのページをご紹介頂ければ感謝します。

今までに、煙草工作員の存在を推定する話や、荒し、騙しのテクニックなどを時折記述してきた。 しかし、インターネットで活発に行われている煙草問題の議論には、直接の参加は殆ど行って来なかった。 何故なら、議論に参加すると、工作員の思うつぼではないかと思うからだ。どのように思うつぼなのかというと 既に幾つかの話題で主張してきたように、情報の選別をできない人が思いの他多く(多分過半数だろう)、 また、こういう人を騙すには、匿名の掲示板で嘘を並べるだけで良いことが分かったからだ。 このページをお読みの方なら、直ちに胡散臭いと思うようなことでも、 インターネットの掲示板に書かれたデマを信じてしまう人が多ければ、工作員の作戦は大成功だ。

最近久しぶりに、インターネットのキーワード検索で、煙草問題に関する掲示板を見付け、 そのスレッドを読んだら、1年位前に、自動車の排ガスは、煙草のより有害だという、 とんでもない嘘を書いているものを発見した。 そしてお決まりのように、煙草を否定するなら自動車を利用するな、と破廉恥なことが書いてあった。 そこで、今回は、自動車の排ガスについて書いてみることにした。 自動車の排ガスについて知れば、煙草より害が多い訳がないことが分かるからだ。 最近、三菱自動車のリコール隠しが散々叩かれているが、リコール隠しによって命を落とした人の数は、 煙草によって命を落とした人の数より何桁も違うほど少ないのだが、 煙草会社や政府を叩くという議論には相変わらず発展しない。 勿論、煙草会社が悪さをしているからといって、自動車会社のリコール隠しが免罪される訳ではないが、 人々の批判の矛先は、その悪の度合いに比例しているわけではない。 こうした矛盾は、マスコミ操作によるものだろう。 このように世論を簡単に操作できるのは、情報の選別を出来ない人が、多数派を占めているという証拠でもある。

自動車の燃料の主流は石油製品である。 天然の石油(所謂原油)を構成する要素の殆どは元素レベルで云うと炭素と水素であるが、 その他に、金属や硫黄など毒性の強い物質が含まれているので、 石油精製会社は、これらの有害か或いは別な理由で望ましくない物質を除去したうえで、製品を製造している。 自動車の燃料になるのは、炭化水素である。 炭化水素そのものは、勿論有害だが、燃料として使用する限りは、必ずしも有害物質を発生させるものではない。 石油製品としての自動車の燃料には、硫黄や鉛などは、現在では殆ど含まれていないし、 今年以降は、国内最大手石油会社の策略によって、無硫黄化が促進される。 キーワードはサルファーフリーである。

高校教育で実施されている有機化学のレベルの話であるが、炭化水素は、炭素と水素の化合物である。 学術的な話は自分もよく分からないので、ものすごく簡単に書くと、炭素には結合の手が4本あり、水素には1本ある。 炭化水素とは、炭素の結合の手に、炭素かまたは水素を全て持たせた物質である。 水素が無ければ、炭化水素ではなく、炭や、ダイヤモンドなどということになる。 原油の主成分は、この炭化水素であるが、組合せが無数にあるので、 簡単に表すことができない。 そこで、原油に含まれる成分を、沸点範囲で分類することにより、沸点温度の低いものから順に、オフガス、 LPガス、ナフサ(ガソリンはナフサに含まれる)、灯油、軽油、重油などの燃料に分けている。 オフガスは燃焼エネルギが低いので、主として製油所内の燃料として使用される。 このうち、自動車の燃料として使用されるのは、ガソリンと軽油であり、簡単に書くと、 ガソリンは1分子あたりの炭素数が5から9位の炭化水素が主成分で、軽油は炭素数がそれより多い。 灯油も暖房用燃料として単に燃やすものなので、自動車と同等レベルか、燃焼制御が不十分なぶん 余計に一酸化炭素などの汚染物を多く発生させているのだが、何故か自動車と違って叩かれることはあまりない。

炭化水素は、炭素と水素の化合物なので、燃焼すると、二酸化炭素と水(水蒸気)を生成する。 不完全燃焼があれば、一酸化炭素を生成することもあるし、特別な条件が整えば、 空気中に含まれている窒素の酸化物(いわゆるNOx)を生成することもある。 しかし、エンジンの制御技術が進んだ現在では、一酸化炭素や窒素酸化物の生成は少なくなった。 また、燃料中に硫黄が含まれれば、当然有害な硫黄酸化物(いわゆるSOx)を発生するが、 現在では、燃料中の硫黄は極めて少ない状態であり、今後は上述のように更に減るものである。
更に詳細な情報は、検索すれば幾らでも見付かるほど情報量が多い。 とくにこうした規制にかかわる内容については、メーカーがデタラメを書くと大変なことになるので、 日本の自動車会社のような企業が公開している情報は信用できるものである。 ちなみに、ガソリンエンジンと、ディーゼル(軽油)エンジンを比較すると、 ガソリンのほうが炭素数が少ないため、ガソリンエンジンのほうが、相対的に水蒸気の発生が比較的多く、 二酸化炭素の発生は比較的少ない。 また、主成分以外に、精製工程で取りきれていない不純物などは、軽油のように重い(分子の炭素数が多い)油種のほうが多いので、 粒子状物質の発生は、ディーゼルエンジンのほうが多い。 したがって、ガソリンエンジンのほうが、今のところでは、害が少ないとされている。 "されている"と書いたのは、将来ガソリンエンジンに移行するのであれば、現在の軽油に更なるエネルギをかけて処理してから、 ガソリン製品の割合を増やさなければならないし、単位体積あたりのエネルギは、軽油のほうがガソリンよりも大きいからだ。 また、ディーゼルエンジンのほうがガソリンエンジンより効率も高いので、燃料消費が抑えられるとい点も無視できない。 だから、単純に、"ディーゼルエンジンのほうが悪い"と言い切るのには、賛同できない。

自動車による大気汚染は、概ねこういった原理で発生するのであり、二酸化炭素や水蒸気以外の汚染物の発生は、 燃焼設備や石油精製等の技術の発展によりどんどん少なくなる。 因みに、石油精製については、米国yahoo.comなどで検索すると技術情報が山のように出てくる。 特に大学のウェブサイトから出されている情報は有益なので、興味のある方は、"distillation", "refinery", "crude"等をキーワードにして検索してみることをお勧めする。 残念ながら、日本語で得られる情報はずっと少ない。やはり日本は情報後進国なのだと実感する。

自動車による汚染に対して煙草による汚染はどうなのかと云うと、これは深刻である。 煙草の害については、自分なんかより、医師の執筆による情報のほうが信頼性が高いので そちらを調べることを推奨するが、筆者のサイトの中でも、
煙草の害について(外国のページから)煙草とダイオキシン喫煙によるエネルギの浪費につい て、 などの項で話題にしているので、そちらも併せて参照してほしい。 正当な情報源としては、知る限りでは、 山岡医師のページがよく纏まっており、また、講演資料もダウンロードできるので、そちらが情報元としては推奨できる。

さて、以上、一部技術的なことを含め、また、情報の検索方法を含めて、書いてきたのは、 このところ話題にしている、情報の見分け方を強調したかったからだ。 既に書いたように、情報の見分け方については、小学校のような早い段階での教育が必要だと思うし、 既に義務教育を終えてしまった人でも、書物、放送やウェブなどで、研究しなければならないことだと思う。 現在の詐欺などの被害者の多くは、情報の選別ができない人ではないかと推定できるので、こういった教育を推進すれば、 詐欺が少なく暮らしやすい社会になると思う。

何度も警告するが、煙草の害という事実から他人の視線をそらそうとするものは、全て胡散臭い。 匿名の掲示板で、煙草を擁護する書き込みは、殆どの場合、根拠がないか或いは全くのデタラメであると言えるし、 大手煙草会社の情報だって、誤った理解を誘導するものである。 このページをお読みの方の知人が騙されていた場合は、早急に誤りを正して頂きたくお願い申し上げる。

注:読者の方から、"策略"というのは良からぬことに対する表現なのでおかしいのではないかとの指摘を頂いた。 筆者は、この石油会社のことを良く知っていたので、製品を差別化して、競合を弱らせる戦略であることを知っていた。 このため皮肉を込めて"策略"という言葉を使用した。 しかし、良い方向であることは確かなので、策略という表現よりは、 戦略という表現のほうが正当な表現であると思う(2006/09/03)。

煙草販売各社の考え方(1)

2004/07/06
最近電車の中から、日本たばこ産業株式会社の広告が消えた。 この会社の広告が消える少し前には、皆様も記憶にあるのではないかと思う、少し目を引くマナー広告があった。 しかし、そのマナー広告も僅かの間に掲示されただけで、跡形もなく消えてしまった。 そして、今度は本当に広告自体が消えてしまった。 おそらく別の項で紹介した、煙草の広告規制を先取りして自主規制したものだと思う。

といっても、今でも、外国煙草の広告は残っている。 煙草販売については、国内の会社と海外の会社が協調して売っているのか、競争しているのか全く良く見えてこない。 販売店では銘柄を分け隔てなく売っているようだし、自動販売機も共通だ。 しかし、今回の広告規制については全く足並みが揃わない。 そのような興味もあって、今回は、各煙草会社と夫々の販売姿勢について調べてみた。 こんなことは本来ならユーザーが率先してすべきことだろうが、何故かユーザーは、 自分自身の関連する大きなビジネスには無頓着だ。

さて、"煙草会社は国内に何社あるか?"、また、"夫々はどのような事業を行っているか?" と問われて答えられる人は殆どいないのではないだろうか。 自分も、以前からよく分からなかったし、調べてみても相変わらずよくわからない。 ということで、国内の煙草販売各社の姿勢を見てみることにした。 今回からしばらく不定期で続くシリーズはできたら、煙草ユーザーに是非読んでいただきたいと思っている。

以前に
煙草広告の謎という話題で書いた通り、 JT以外の販売会社は、広告に社名を入れていなかった(ひょっとしたら見落としただけで、 入っていたものもあるかもしれない)。 今回は、JTの広告が姿を消したので、比較的目立つようになった外国煙草の吊広告を見たところ、 "エムシー・タバコ・インターナショナル株式会社"という社名が入っているものがあったので、 この会社のウェブサイトを検索してみた。 しかし、この会社のウェブサイトを見つけることは出来なかった。 こういったことも含めて、調査した内容を記す。

まず、どのような会社があるのか、そこが分からなければ意味がない。 そこで検索をかけたところ、たばこ増税の反対署名に感謝するページを発見した。 そしてその中に

社団法人日本たばこ協会
日本たばこ産業株式会社
フィリップ モリス株式会社
ブリティッシュ・アメリカン・タバコ・ジャパン株式会社
エムシー・タバコ・インターナショナル株式会社
全国たばこ販売協同組合連合会
全国たばこ耕作組合中央会

というリストがあった。恐らくこれが、煙草販売会社と関連団体のリストではないかと思う。

他にも販売会社があるのかは分からないが、今回調べがついたのは、これだけである。 そこで、各社のウェブサイトを探した。今回と次回は、そこに書いてあった内容をまとめて紹介しようと思う。

(1)フィリップ モリス株式会社

社名をキーワードにして、http://www/yahoo.co.jp で検索したが、キャンペーンの紹介だけで、その会社のページには行き着かなかった。 日本語は、Phillip Morris Internationalのページ(http://www.philipmorrisinternational.com以下)にあった。 しかし、これは、日本法人のページではない。 日本法人がありながら、そこではなにをやっているのかよく分からない。 多分、このページに行き着いて情報を探っているユーザは殆どいないだろう。

このページ以下に"喫煙と健康"という内容がある。ここには以下の内容が書いてある。

http://www.philipmorrisinternational.com/pages/jpn/Default.asp
以下のページから

注:途中の傍線は、Smoke Stinksが付けたものです。

明確で一貫したメッセージ

(中略)

紙巻きたばこの喫煙は、喫煙者に肺がん、心臓病、肺気腫、その他重大な疾病をもたらします。 喫煙者は、非喫煙者に比べて、肺がんのような病気にかかる割合がはるかに高くなります。 "安全な"紙巻きたばこというものはありません。

喫煙は危険であり、依存性があります「addictive」。

喫煙者は喫煙の危険性を引き続き知っておくべきです。

(中略)

私たちは、製品を販売しているすべての地域で、喫煙、病気および依存「addiction」について 明確で一貫した公衆衛生メッセージを支持しています。 また、紙巻きたばこのパッケージや広告に健康警告を表示するようたばこメーカーに義務付ける法律も支持しています。 このような法律のない国々では、私たちは自主的にパッケージやカートンに警告を表示しています。 当社はさまざまな事実を引き続き広く知っていただきたいと考えています。

健康への影響


紙巻きたばこの喫煙:喫煙者の健康に関する問題


紙巻きたばこの喫煙と喫煙者の疾病について: 当社は、紙巻きたばこの喫煙が喫煙者に肺がん、心臓病、肺気腫、 その他重大な疾病をもたらすとの圧倒的な医学的・科学的なコンセンサスに同意します。 喫煙者は、非喫煙者に比べて、肺がんのような重大な疾病に罹患する割合がはるかに高くなります。 "安全な"紙巻きたばこは存在しません。

(中略)

一貫した公衆衛生上のメッセージの支持: 当社は、喫煙が喫煙者の疾病の発症に果たす役割、 および喫煙と依存(addiction)の問題について、一つの一貫した公衆衛生上のメッセージを支持します。 これには、パッケージや広告に健康警告を表示するよう、たばこメーカーに義務づける法令を支持することも含まれます。 また、その警告メッセージの文言は政府および公衆衛生担当官が決定すべきであると、当社は考えています。
環境中たばこ煙「Secondhand Smoke」

公衆衛生担当官は、環境中たばこ煙が、成人の非喫煙者における肺がんや心臓病などを含む疾病、また子供における喘息、 呼吸器感染、咳、喘嗚、中耳炎、乳幼児突然死症候群等の原因となると結論づけています。 さらに、公衆衛生担当官は、環境中たばこ煙は成人の喘息を悪化させ得るし、目、のど、 および鼻の炎症の原因となり得ると結論しています。

(中略)

環境中たばこ煙に関する公衆衛生担当官による結論は、公共の場での喫煙規制措置を設けるために充分な根拠であると、 フィリップ モリスインターナショナルは信じています。 また私たちは、喫煙が許されている場所では、環境中たばこ煙「secondhand smoke」は非喫煙者に疾病をもたらすという 公衆衛生担当官の結論を伝える警告を表示するよう、政府が義務づけるべきであると考えます。

(以下省略)

以上のように、同社の公式な見解では、煙草には害があるという公的な見解を強く支持している、ということになっている。 この点は、都合の悪いことを隠す煙草会社という話題で紹介したように、害があることを認めながら、 害がないというように意図的に誤解させている国内の会社とは、公式見解が異なっている。
このページを読むと、なにか、非常にまともな会社のように思えてくるのだが、 実際にはとてもこのような方針があるとは思えない広告だらけなのは何故だろうか。
あるいは、フィリップ モリス インターナショナルとフィリップ モリス株式会社は、見解が異なっているのだろうか?

(2)エムシー・タバコ・インターナショナル株式会社

この会社は、日本語YAHOOでも、米国のYAHOOでも検索できなかった。 幽霊会社だろうか?煙草のような、有害な特殊商品を扱っているのに、販売元もはっきりしないという状態で、 何の疑いもなく商品を購入するユーザが居るというのもちょっと信じられない。

(3) ブリティッシュ・アメリカン・タバコ・ジャパン株式会社

3カ国以上の名前の付いた、国際的な名称の会社である。
要点を先に書いてしまうと、この会社姿勢は既に一部を記述した、日本たばこ産業株式会社の方針に似ている。 また、同社の日本語の文面は、基本的には英文の翻訳だが、翻訳に当たっては、なるべくユーザを、 自分たちにとって都合の良い方向に解釈させようと努力しているのが感じられる。 やはり行間を読まなければならないが、元が英文の翻訳なので、行間は比較的読みやすいと思う。
この会社は前の2社とは異なり、日本法人のウェブサイトを持っている。情報元は、引用の枠内に示す。。


(情報源)
ブリティッシュ・アメリカン・タバコ・ジャパン株式会社
http://www.bat-japan.com/
以下のページから
注:途中の傍線は、Smoke Stinksが付けたものです。
健康リスク

ブリティッシュ・アメリカン・タバコ・ジャパンでは、喫煙の楽しみは、肺がん、呼吸器疾患、 心臓病などの重い病気を引き起こす危険があることを認識しています。 また、多くの人にとって喫煙には常習性があり、禁煙は難しいことも認識しています。

一口に言うならば、喫煙はある種の病気の原因となります。 この考え方は、長年にわたり多くの喫煙者が信じてきたものであり、消費者や公衆衛生当局にとっても最も妥当なものです。

調査・研究
喫煙が及ぼす健康への影響に関する私たちの見解は、大部分が疫学的研究によってもたらされたものです。 疫学は統計に基づく科学であり、個人に対する影響ではなく、むしろ大規模グループを集合として捉えた時の影響を測定するものです。 疫学では調査票(データ)と観察によって調査をします。例えば喫煙者グループの病気の発症率を測定し、 非喫煙者など他のグループの発症率と比較します。

疫学調査では、長年にわたって特定の病気の発症率が非喫煙者より喫煙者グループの方が高いと、報告されています。

疫学は、古くから疾病の原因を特定する手段として使われ、研究室での調査の際の指針となっていました。 喫煙に関して言えば、長年行われてきた調査・研究はより問題をはらんでいることが分かってきました。 現在までに、 統計的に発見されたデータから喫煙と特定の病気の因果関係を証明できるような生物学的メカニズムは解明されていません 註1し、 病気が進行する際に、煙の成分がどのように影響を与えるかについても、明らかになっていません。 どのような喫煙者が喫煙に伴う病気にかかり、他はそうでないのか、また実際に病気にかかった個人が喫煙だけの原因 註2 でそうなったのかについて、科学では解明されていません。 その理由のひとつには、喫煙に関連する病気が、生涯一度もたばこを吸ったことのない人にも発症していることが挙げられます。

Smoke Stinks註:
1.一般にデータから因果関係を証明することができないことは、 別の項を参照のこと。 この会社は、当たり前のことを尤もらしく書いているだけである。
2.病気の要因がタバコだけでなければならない理由は何だろうか? 通常は、要因の一部を為していれば十分に有罪のはずだ。 これは、犯罪の共犯者が居たからといって、共犯者を全て捕まえなければ捕まった犯人を裁くことができない、 といっているのと同じことである。

病気の発症過程と煙の特定成分が果たす役割について、生物学的レベルで完全に解明されていないため、 健康への影響の少ない紙巻たばこを設計する取り組みは、まだ不確実なものになっています

最初の疫学調査の結果が1950年代と60年代に発表されて以来、ブリティッシュ・アメリカン・タバコ・グループにおける 科学的研究の作業仮説は、喫煙と特定の病気には関係がある、 というものでした。 研究の焦点は、よりリスクの少ない製品を作り出し、評価する試みにありました。 長年ヘビー・スモーカーだった人のグループのリスクが最も高いという統計結果があることを考えれば、 一生のうちでたばこを吸う量が少なければ少ないほど、リスクも低いと考えるのが賢明な仮説です。 これは紙巻たばこを構造する上で、 タールがより少ないたばこの方がリスクを低減させると考えるべきだと示唆しています。
(中略)
最終更新日 21/06/2004 09:08 GMT

注:この部分は、意味不明と読者の方から御指摘を頂いた。 しかし、この部分は引用なので、勝手に変更することはできない。元の文章が変なのである。


この部分についてのSmoke Stinksコメント
最初の部分は、通常の内容だったので、普通に読み流していた。しかし、傍線を引いた部分に目が止まった。 結局この会社は、煙草の害は、灰色であって、黒ではない、 また、疑わしきは、罰せず、という主張を行っているようだ。 この会社にとって、状況証拠は証拠ではないということだ。 刑事訴訟法では、確かに状況証拠単独では、有罪の決め手にならない。 何故なら、有罪・無罪の決定は、当事者にとって、それが生死を決定するような多大な影響を与えるので、 このような厳密な証明が求められている。 これに対して、食品販売のような場合は、害が疑われるだけで、販売中止になるのが普通だ。 食品の場合は特に厳しく、外国で問題なしとされていても国内で認可されていないだけで大騒ぎになったり、 過酸化水素のように実際には、調理過程で殆ど消失してしまうし、また、消失しない場合でも 発癌がタバコのよりも何桁も低い確率になるためにその商品を毎日何トンも食べなければならない場合であっても、 マスコミに騒がれたために販売中止になってしまったものもある。

更に上記の内容の行間を読むと、煙草の害は証明されていない (と同社が考える)ので、たとえ煙草ユーザが現在病気になり続け、将来も大勢が死のうとも、 害が完全に証明されて、煙草が販売禁止になるまでは、同社の儲けのために売り続ける、 という強いメッセージであると理解できる。

文体も何か不自然であったので、英語のページを読んでみた。 基本的には、日本語サイトでの翻訳は正しいと思うが、一部は自分なりに要約や翻訳を付けてみた。
http://www.bat.com/
からSMOKING AND HEALTHの項の一部


British American Tobacco recognises that along with the pleasures of smoking there are real risks of serious diseases such as lung cancer, respiratory disease and heart disease. We also recognise that for many people, smoking is difficult to quit.

(以上の要約)
BATはタバコを楽しむには、肺癌や心臓病などの重病にかかるリスクがあることを認識している。 また、タバコをやめることが難しいことも認識している。

In the most simple and commonly understood sense, smoking is a cause of certain diseases. This has long been the working hypothesis of much of our research, has been believed by smokers for decades, and is the most appropriate viewpoint for smokers and public health authorities.

(以上の拙訳)
最も単純な社会的常識ではタバコはある病気の原因になっている。 これは、長い間、我々の研究の元となる仮定であった。 また、これらは、吸煙者も数十年に亘って信じてきた。 そしてこれは吸煙者や公衆衛生の専門家にとって、最も適切な視点であった。

Studies
Our views on the health risks are largely driven by the epidemiological studies. Epidemiology is a statistically based science, dealing with risks among large groups of people, rather than with individuals. Through questionnaires and observations of people, epidemiological studies can identify the incidence of disease in a given group, such as smokers, and compare it with the incidence in another group, such as non-smokers.

Over many years, epidemiological studies have reported a much higher incidence of certain diseases among smokers compared with non-smokers.

(以上の要約)
健康上のリスクに関する我々の視点は主に疫学的研究を原動力とするものである。 疫学は統計学に基いた科学で、個々の人々の症例ではなく、 多くの人々のグループのなかのリスクを取り扱うものである。

長年に亘って疫学の研究は、ある病気の発生頻度が、 タバコを吸わない一般の人と比べて吸煙者のグループに、特に高いことを報告してきた。

Traditionally, epidemiology has been used to identify associations that point to possible causes of a disease, providing direction for thorough laboratory investigations. With smoking, the many laboratory investigations over the years have proved more problematic, and science has not to date been able to identify biological mechanisms which can explain with certainty the statistical findings linking smoking and certain diseases, nor has science been able to clarify the role of particular smoke constituents in these disease processes. Science is still to determine which smokers will get a smoking related disease and which will not. Nor can science tell whether any individual became ill solely because they smoked. This is, in part, because all of the diseases that have been associated with smoking also occur in life-long non-smokers.

(以上の要約)
科学では生体個別の症例については、十分に発生の原因を説明できていない。 これは、それらの症状が、タバコを吸わない一般の人にも発生することからも、 科学的解明はできていないということが言える。

(Smoke Stinks註)
タバコの煙を吸ったことのない人は果たしてどれだけ居るのだろうか? 少なくとも日本国内では皆無だろう。 また、他の要因でも発生する病気だからといって、タバコを免罪することができないことは 明白であることに注意して読む必要がある。
この部分は、タバコ会社にとって都合の悪い部分を議論の対象から外そうという意図が読み取れる。
また、全体に亘って、読みにくい、難しい文章である。 多分英語ネイティブの知的な人が書いたものだろうが、 こういった文章に相応しい表現ではなく文学的表現になっているような気がする。

例えば、読んでいる人を煙に巻きたいのなら、上記の最後の文章は、
原文
This is, in part, because all of the diseases that have been associated with smoking also occur in life-long non-smokers.
自分ならこう書く
Current science coud not explain actual cause of each incidence. In fact, we see incidence of diseases, which are so-called being  associated with smoking ,among non-smoking group as well as smoking group.
とでも書いたほうが、あっけらかんと騙せるように思う。 態々"so-called"と書いたほうが、"所謂煙草病"、即ち、煙草に限定した病気ではないと信じている文面と整合性がとれると思う。 この会社の文章は、表記が揺れていると感じる。 恐らく、行政に指導を受けたり、被害者に訴訟を起こされたりすることを避けるための慎重な表現にしているからだろう。 この表現の揺れは、オリジナルの英文も日本語訳も同様である。
(註 以上)



The lack of complete understanding at a biological level of the disease mechanisms and role of particular smoke constituents creates uncertainty for efforts to design less risky cigarettes.

(以上の拙訳)
これらの病気発生のメカニズムと生物学的レベルでの完全な解明がないことと、タバコの特定成分の役割がわからないことが、 リスクの低いタバコを設計する努力を不確かなものにしている。

(Smoke Stinks註)
この会社は、リスクの低いタバコを作ろうと努力しているが、(世界全体での)生物学的な研究成果が十分でないから、 リスクの高いタバコを売りつけているのだと開き直っているように解釈できる。
また、下の部分も、リスクの低いタバコの研究に力を入れている、と繰り返しているが、 普通だったら研究成果が上がるまで販売しないのが人として正しい道だろう。
これらの文の行間を読むと、タバコのように百歩譲って嗜好品でしかない(簡単に言えば役に立たない)、 不完全で危険な商品を、その危険を承知で売り続けているということが分かる。

(以下省略)




この会社の主張については、題材として更に議論する価値があると思う。
大物の日本たばこ産業株式会社を含め、この続きは、また、近いうちに議論しようと考えている。


この項以上

煙草販売各社の考え方 (2)

2004/07/27

今回は前回に引き続き、ブリティッシュ・アメリカン・タバコ・ジャパン株式会社について記す。

(情報源)
ブリティッシュ・アメリカン・タバコ・ジャパン株式会社
http://www.bat-japan.com/
以下のページから
注:途中の傍線は、Smoke Stinksが付けたものです。
受動喫煙 (ETS)

(省略)

受動喫煙は病気を引き起こすのでしょうか。
統計研究や、世界保健機関(WHO)、公衆衛生機関、そしていくつかの政府によれば、 受動喫煙もしくは間接喫煙が様々な健康問題の原因になると結論づけられています。

その中でも、成人の非喫煙者の肺がんもしくは心臓病と受動喫煙、または子どもの気管支系の病気、耳の障害、 幼児の突然死と受動喫煙の間に関連性があるとされており、 非喫煙者が周囲のたばこの煙を避けることができない状態を懸念することは理解できます。

しかしながら、現在の科学的な研究結果を公正に評価しても、 受動喫煙に対する多くの主張は誇張である、と私たちは考えています。 特に、受動喫煙が肺がん、心疾患、慢性閉塞性肺疾患などの慢性疾患の原因になるという説には賛同しておりません。

例えば、WHOが行った受動喫煙と肺がんに関する最大規模の調査によると、喫煙者と一緒に育ったり、 生活したり、働いたり、旅行したり、交際したとしても肺がんのリスクが有意に増加するという結果は得られていません。 WHOはこの調査の結果は受動喫煙によってリスクが高まることを一貫して示していると唱えていますが、 これは無理な主張であると言えます。

2002 年、WHOの研究者たちは、受動喫煙と肺がんについて行われた51の研究結果を収集し、 喫煙者と生活を共にする非喫煙者は、喫煙者と生活を共にしない非喫煙者のリスクよりも 統計上では1.25倍高い肺がんのリスクを負っていると推計しました。 この種の研究は、メタ分析と呼ばれ、多数の先行研究の結果を分析し、それらに共通する項目を明らかにするものです。 この方法論は、類似の研究のデータを集計することはできますが、 各研究のエラーやバイアス(調査の偏り)が生じるいう点において批判されてきました。 私たちは、メタ分析は質の高い疫学研究に勝るものではないと考えます。

米国環境保護局は1993年の報告書の中で、受動喫煙は非喫煙者の肺がんの一因と言明しましたが、米国議会調査部はこの研究結果を激しく非難しています。また連邦裁判所は、この見解には根拠がないとしています
(この部分の原文)
The United States' Environmental Protection Agency declared in 1993 that ETS was a cause of lung cancer in non-smokers, but this finding was heavily criticised by the US Congressional Research Services and has been called into question by a U.S. court.


(Smoke Stinks註)
以下の翻訳には疑問が残る。
原文
同社の翻訳
(1)but this finding was heavily criticised 研究結果を激しく非難しています
(2)and has been called into question by a U.S. court この見解には根拠がないとしています

(1)の"was heavily criticized"は、"批判した"という以上の表現ではない。 原文中に"heavily"とあるが、このような定性的な表現では、程度が分からないので、 このような文書に記述する表現としては相応しくない。 このような、解釈が人によって分かれる表現を多用するのは、一般的な騙しのテクニックのひとつである。

(2)"called into question by a U.S. court"というのは、"米国裁判所が、その説に疑問を持った"、 という程度のことだろう1)。原文からは、裁判所の職権を以って根拠が無いと結論付けた というようには読めない。更に、"U.S. court"を"連邦裁判所"と訳したのは、騙しの目的を持った意図的な誤訳だろう。

註 1)  2004/7/29記
この部分を読み返してみて、少し分かりにくいところがあると感じたので、少々補足する。
"call in(to) question"とは下記のように説明されている。

(1) …に論駁(ろんばく)する,異議を申し立てる.
(2) …に疑いをはさむ,…を疑う.

Progressive English-Japanese Dictionary, Third edition ゥ Shogakukan 1980,1987,1998/プログレッシブ英和中辞典  第3版  ゥ小学館 1980,1987,1998

すなわち原文は、裁判所に異議を申立てられたということになるだろう。 実際の判決を読んでないので(原典が示されていないため)、裁判の流れは不明だが、 この記述を読むと、裁判所が、証拠採用するには、 疑問があったので、原告に説明を求めた、というように想像できる。何故なら、裁判所が否定したのであれば、 そのように記述すべきだからだ。

裁判においては、通常は原告に、相当に厳密な証明を求められるので、 状況証拠程度では否定される可能性がかなり高い。 だから、このように、裁判所が説明または証明を要求するのは、普通のことである。 この場合は、裁判所がその部分を 証拠として採用しなかったのかもしれないし、説明を求めた結果納得して証拠採用したのかもしれない。 おそらく、原文はこのようなことを書いているだけではないかと考えられる。

このように、自分に都合の良い部分だけを抜き出し、また、原典を隠して説明するということは、原典のその他の部分に都合の悪い内容が相当含まれている と考えるのが普通である。

このような点は、見過ごしやすいので、注意が必要である。



(省略)

しかし、受動喫煙が誰にとっても無害であると証明されたとも言えません。 例えば、喫煙者のいる家庭の子どもの呼吸器疾患や耳の障害などの急性の病気と受動喫煙に関係がある、 という証拠があります。 また、煙が充満した環境は、喘息など呼吸器に問題がある人にとって特に不快感を与えることがあります。

したがって、私たちは受動喫煙が社会にとっての課題であることを認識し、喫煙者は周囲の人々に心配りをし、 特に子供の周りでは喫煙を控えるべきだと考えています。


以上の詳細は、読者の方に同社のページを直接読んで頂ければ、同社の姿勢を読み取ることができるだろう。 この会社のページは、以下のテクニックを駆使している。

(1) 定性的な表現を多用する
(2) 引用の研究や説などの、原点を探られないよう、対象をぼかす("U.S. court"等)
(3) 自社を有利にするために引用した説などの詳細を明かさない(日付や報告書名等を書かない)
   但し、自分に都合の悪い事実には、日付を入れて、信頼性のある文書を装っている点に気付く必要がある。
(4) 意図的に誤訳する

内容についての批判は、前回の繰り返しになるので省略する。

今回でこの会社の情報は一旦終了し、次は、日本たばこ産業株式会社について論じたい。

この項以上

注:読者の方から、BAT社が受動喫煙の害を故意に隠しているということを明記したほうが良いとの御指摘を頂いた。 しかし、日本たばこ産業にしても、BATにしても、害が無い、と云いきってはいない。 誤魔化そうという悪意は感じるが、相手の勘違いを否定しないことによる間接的な騙し方であり、直接的な騙しではない。 裁判になったときに言い逃れる余地を残した悪質な詭計であることにはまちがいない(2006/09/03)。
また、同時に、記事注に、"が生じるいう..."という部分は、"が生じるという..."と修正すべきであるとの指摘も頂いたが、 引用部分は勝手に変更できないのでここもそのままとした(2006/09/09)。

煙草販売各社の考え方(3)

2004/08/02

前回までに、外国の煙草会社のうち、国内で販売を行っている会社のうち2社について論評してきた。 今回は、国内最大シェアを誇る日本たばこ産業株式会社について紹介する。 この会社については、昨年、
都合の悪いことを隠す煙草会社 という話題で論じてきたので、今回はそれを踏まえて簡潔に纏めたいと思う。

先ずは、この会社について良い点から紹介したい。この良い点とは、不完全ながら、マナー広告を示した点だ。 "煙草販売各社の考え方"シリーズの執筆を始めた頃は、消えていたが、また、復活したシリーズだ。 このマナー広告の良いところは、煙草販売に対して都合の悪い内容を多少なりとも含んでいる点だ。 下記に、URLを示しておくが、リンクは付けないのでご了承頂きたい。

あなたが気づけばマナーが変わる
http://www.jti.co.jp/JTI/manner_kokoku/Welcome.html

もちろんこれで万歳というほどの内容ではないが、以前に比べれば大きな進歩だろう。 大株主である政府が注文を付けたのだろうか。 外資系の煙草販売会社にはないタイプの広告なので、ちょっと不公平な感じだ。 外資の会社もこのような広告を出さなければ、平等ではないだろう。 何故なら、外資の会社はせっせと煙草の広告を続けているからだ。 JTの広告も復活したが外資と比較するとあまり目立たない。

多少持ち上げておいたが、次に辛口のコメントを付加したい。 それは、以前はトップページから辿れたと記憶している、"喫煙と健康"というコーナーが隠れてしまったことだ。 このページにたどり着くためには、ホームページから、"たばこへの取り組みについて"というコーナーに飛ばなければならない。 ホームページから一発でそのページにたどり着けないのは、できればユーザに読んで欲しくないという気持ちの表れだろう。 ここでも都合の悪い事実を隠そうという姿勢を貫いていることが伺える。

さて、そのページの内容は昨年この会社について話題にした時点と、大きな差があるようには感じられなかったので、 一部だけコメントしたい。

http: //www.jti.co.jp/JTI/tobacco/positions/reduced_risk.htmlから
註:以下の内容に挿入した枠は、Smoke Stinksのコメントを記したものです。

喫煙リスクの低減

私たちは、喫煙のリスクを完全に取り除くことは困難であると考えていますが、 喫煙のリスクを減少させる可能性のある製品を開発することは、 たばこ会社にとっての当然の責務であると考えています。

喫煙に関連すると言われている各種疾病の発生メカニズムは未解明であり、 たばこ煙中のどの成分がどのように疾病発生に影響するのかもいまだ解明されていません。 したがって、「リスク低減」の定義は何か、それをどのように評価するのかといった枠組について、 科学界・公衆衛生当局を含めて広く合意ができているわけではありません。
Smoke Stinks註
この部分は既に紹介したBAT社と殆ど同じである。
現在、リスク低下の研究をしているから、現在の危険の大きな煙草の被害については、 免罪してくれと表明しているだけだ。

(省略)

しかしながら、製品のタール量を低減することによってどの程度リスクが低減されるかわかりませんし、 またシガレット中のタール成分を完全に取り去ることができるわけでもありません。 どの程度タール量を減らせばリスクを低減したといえるのかについても科学的に明らかになってはいません。
Smoke Stinks註

この部分も既に紹介したBAT社と殆ど同じである。煙草の危険を認識し、かつ、その危険によって、 被害者の重大疾病や死亡などの重大な被害を予見していながら、 自分は分からないから許してくれ、と云っているのである。

まともな人間なら、そのリスクを皆無にするまで販売を中止するべきだと考えるだろう。

(以下省略)

以上読んでみてやはり同じ疑問に行き着いた。煙草ユーザは、各社が認識し、 不完全ながら表明している煙草の害について知っているのだろうか?


新聞の記事を読んで

2004/08/19

最近は、詐欺事件のニュースを聞く個ことがやけに多いように感じる。 今日(2004/8/13)も朝刊を見たら、詐欺事件が載っていた。 その詐欺事件は、弁護士会の関連団体と思わせる名称を名乗って、架空の請求を行うものだったという。 このような騙しに遭っても落ち着いて対処できるよう、日頃から騙しの手法を勉強しておくと役に立つだろう。 ということで、今後は、騙しのテクニックを、煙草会社から学ぼうとういうことを計画している。 こういった騙し術は、恐らく体系的に纏められていると思うが、未だそういった調査は行っていないので、 自分の切り口で纏めてゆきたい。 なお、そのシリーズは、題材としては広範に亘るので、不定期で暫く続けるつもりである。

今回はそれとは、話が異なるのだが、これもタバコに関する問題を連想させられた新聞記事である。

8月13日の神奈川新聞朝刊に次のような記事があった。

有 害図書類を自販機で販売
県警、7業者捜索


県警少年課と保土ヶ谷など県内十五署は、十二日までに、 自動販売機で有害図書類を販売していた七業者を県青少年保護育成条例違反(収納禁止)の疑いで家宅捜索した。 有害図書類のビデオ、雑誌、DVDなど百九十五点も押収した。
捜索は十、十一の二日間実施。自動販売機で有害図書を購入した少年らの供述に基き、三和図書販売(川崎市高津区)、 自販マルコー(横浜市都筑区)など、県内や都内などの六法人と都内の一個人業者を捜索した。 県警は六月にも同様の捜索を行っており、その際捜索した四社のうち三社が今回も対象になった。 今後、各業者を同容疑で書類送検する予定。(中略)
誰でも購入できるこれら自動販売機で有害図書を販売することは、同条例で禁止されており、 同課は「悪質な業者には、強制捜査を中心に対応していく」と話している。



この記事を何となく読めば、"ああ、そうか"で済ませてしまいそうだ。 しかし、ここで読んだ方は、議論の要点を既に予測されているに違いない。 その要点は、"では、何故煙草の自動販売機は摘発されないのか?"という疑問である。
上記の新聞記事には、図書を購入した少年らの供述云々とあるので、購入した側も罪に問われるのかと思われるが、 記事には"XX法(または条例や政令等)に基いて"という記述はない。 恐らく、購入を禁じる法令はないのではないかと想像する。 仮に、青少年に"そういった図書類の購入を禁じる法令が無かったとした場合、任意"取調べを行ったとしたら、 そちらのほうが重大な人権侵害だ。 何故なら、法学部に所属する少年ならともかく、普通の少年は"任意"の正確な意味など知るはずがないからだ。 普通だったら、警察がやってきたら、何も考えずに応じてしまうだろう。 米国映画でよく見るような、取り締まるための法的根拠と被疑者の権利について告知する、 というようなことを日本の警察が行ってるのであれば、話は別であるが。

さて、煙草の場合は、未成年者が煙草を服用した場合、罪に問われる(未成年喫煙防止法2条)ので、 こちらのほうが、罪は重い。 しかも、地方公共団体の条例ではなく、全国レベルの"法律"で禁止されている行為である。 上記のような摘発があるなら、煙草の自動販売機は全国で一斉に摘発しなければならないはずだ。 警察がそうしない言い訳は分かっている。 "誰でも購入できるこれら自動販売機で煙草を販売すること禁じる法律や条例がない"からだ。 また、下記に示す、法律の第5条が微妙で、直接販売でなければ罪に問われないという見解もありうるからだ。 筆者の見解では、自販機から、未成年がタバコを購入し、自ら消費する可能性を認識し、それでも意に介さない、 という考えで、タバコの自販機を設置し、現に未成年がそこで購入し、消費した場合には、未成年喫煙防止法5条で摘発できる。 これは、刑法学では、認容説と呼ばれる通説に基いて犯罪の故意を認定するものだ。 よく聞く未必の故意というのも同様である。 むしろ、タバコの自販機は、未成年に購入して欲しいという、希望によって設置しているのだろう。 これも当然故意を認定できる。認容説を否定する、希望説というのもあるがこの 場合は希望説であっても故意になる (これはごく少数説だと考えられるが、一応刑法の教科書には載っている考え方である。 但し、希望説で故意を認定するとなると検察側の故意の立証は大変になる。)。
しかしながら、絶対にそのような取締りをしないのは、裏で大きな力が働いているからだろう。 また、取り締まる側も、同法の違反を犯罪とは考えていないのだろう。
法律で決まっている事柄の違反を認容する警察当局の態度は職務怠慢と言う他はない。

注:"服用"ではなく"吸った"というのが正しい表現であろうとの御指摘を読者の方から頂いた。 ここでわざわざ服用という表現を使用したのは、能動的に吸引したことを表したかったためである。 受動で吸わされていることに対する皮肉でもあった。 しかし、正しい表現ではなく、また分かり難かったことは事実であり、反省している(2006/09/03)。

未成年者喫煙禁止法
(明治33年〔1900年〕3月7日制定,同年4月1日施行,2000年11月改正,2001年12月再改正,2001年12月施行)
第一条 満二十年に至らざる者は煙草を喫することを得ず
第二条 前条に違反したる者あるときは行政の処分を以って喫煙の為に所持する煙草及び器具を没収す
第三条 未成年者に対して親権を行う者情を知りて其の喫煙を制止せざるときは科料に処す
二 親権を行う者に代わりて未成年者を監督する者亦前項に依りて処断す
第四条 煙草又は器具を販売する者は満二十年に至らざる者の喫煙の防止に資する為年齢の確認其の他の必要なる措置を講ずるものとす
第五条 満二十年に至らざる者に其の自用に供するものなることを知りて煙草又は器具を販売したる者は五十万円以下の罰金に処す
第六条 法人の代表者又は法人若は人の代理人、使用人其の他の従業員が其の法人又は人の業務に関し 前条の違反行為を為したるときは行為者を罰するの他其の法人又は人に対し同条の刑を科す


このような矛盾は、タバコ社会では当然のことであり、公権力で決めてしまえば私利私欲のために毒でも売れるし、 犯罪だって運用によって許容してしまうという社会の恐ろしさの一面を示している。

情報操作からの脱却

2004/09/09
先月までで、煙草販売各社の考え方という話題で、煙草販売各社の姿勢と、 彼らが如何にユーザーに対して不誠実な営業を行っているかについて論じてきた。 その不誠実さを一言で表現すれば、煙草の毒を承知していながら、ユーザを薬物中毒にして売りつけているということだ。 その話題を読んでいただければ分かる通り、煙草の販売会社は、煙草の毒性を認識しており、また、煙草の消費を続けた結果、 ユーザが病気になろうが、死のうが、それは、ユーザの自己責任に起因することなので、意に介さない、 という考え方をとっている。 また、更に、いわゆる煙草病と云われている病気は、煙草を消費しなくても発生する可能性があるから、 煙草を責めるなと公言している。 これは、云ってみれば、アルコール中毒の人に対し、酒に毒薬を混入して薬殺しておきながら、 毒が入っていることは公言してあるし、放っておいても、他の原因でて死ぬかもしれないし、 そもそも、その毒を飲んだのは、被害者自身の自己責任だろう、だから、自分には責任がない、 と開き直っているようなものだ。

前置きはさておいて、煙草の普及状況を考えると現状は、甚だしく狂っていると云わざるを得ない。 毒であり、自らの寿命を確実に縮め、また、他人の寿命を縮めたり、不快にするという性質のある商品を、 定期的に購入する人が人口の何十パーセントも存在するのだ。 また、その残りの何十パーセントのうち、数値は知らないが、その多くが、そのことを問題として認識していないか、 または、意に介さないでいる。このような事情なので、未だに煙草の問題は解決されていない。

では、この状況を作り出している理由は何なのか。 それは、ユーザを含む多数の人々が無知であることがだろう。 残念ながら、知的な人の中にも煙草ユーザが相当数存在することから、単に無知というと語弊があるかもしれない。 勿論無知であることが原因なのだが、もう一つは、無知になるように洗脳されていることが原因だろう。 どのような洗脳かというと、それは、煙草と没個性という話題で記述した通りである他、煙草は二十歳になってから、とか、煙草は大人の嗜好品 、というような、政府や煙草会社による誘導によるものだ。 また、先の話題を紹介したところ、読者の方から、大人は煙草くらい許容するものだ、とか、煙草に文句を言うなんて大人気ない、 というような、社会的な洗脳もあるのではないかという指摘を伝言板に頂いた。 このように、政府主導で、煙草を普及させてきたのだから、その洗脳度合いは恐るべきものだろう。

現役の煙草ユーザのうち、既に重度の洗脳にかかっているか、または、物理的な中毒症状に侵されているグループに属する人々は、 この議論からは除外する。重度の洗脳にかかっているのは、もはや、過激派の宗教徒と同じで、中立の思考能力をもたないし、 薬物中毒者は、治療しないかぎり正常な判断力さえも有しない。 こうしたグループに属さない煙草ユーザは、見る限りかなりの少数派だ。

しかし、自分を含め、こういった洗脳活動に対して抵抗力をもつ人もそれなりに存在する。 こういった人々と、煙草に問題意識を持たない、非煙草ユーザとの差は何だろうか。 洗脳に対して抵抗力を持つユーザのうち一部は、呼吸障害があったり、薬物過敏だったりするだろう。 しかし、そうした身体的な原因がなくても、煙草洗脳に対抗性のある人は存在する。 その対抗性を養成するのは、言うまでも無く教育だ。 教育は、自然科学や社会科学のような基礎的なものだけではいけない。 それらは、全て生きるために学ぶものなので、その目的から逸脱してしまっては、 教育を受ける側の興味が保たれるかどうかは分からない。 日本の教育を見る限り、生きるために学ぶ、という目的を逸脱し、高学歴や難関資格などの特権を得て、 将来楽をするために、学習内容を暗記する、というように感じる。
勿論、義務教育を提供する先生のなかには、崇高な精神を持って、生徒を指導しておられる方が多いのだろうが、 受験を軽視すれば、無知な親から突き上げを食らってしまうだろう。 自分は何十年か生きてきた経験からすると、学歴には大した意味はないと思う。 世の中を見渡せば、学歴に関係なく優秀な人が大勢いるからだ。 それに、能力があれば、学歴に関係なく仕事ができるので、高学歴を目指す人は、 自分の能力の不足する部分を学歴で補うという本能が働いているという見方もできる。 当然、高度な教育を受けたほうが良い仕事もあるし、教育よりも経験と創意工夫のほうが重要な仕事もある。 どのような職を目指すかに関係なくひたすら高学歴を指向するというのもどうかと思う。

話を元に戻すと、教育は、生きる力を養うのが第一目的だから、先ずは、生きていくために必要な事柄が最重要だ。 それには、コミュニケーションの能力と、自分で創意工夫するための能力を養うことが必要だ。 コミュニケーション能力には、読解や作文の他に、プレゼンテーションの能力などがあり、創意工夫するための能力を養うには、 自然科学の基礎等があるだろう。社会科学は、コミュニケーション養成能力を養うための教材のひとつではないかと思う。

こうした内容は専門家に譲るものとして、今後は、煙草会社の情報を題材にした、情報判別の方法を議論して行きたい。

この項続く

騙された!新手の広告

2004/09/24

秋分の日、既に別のトピックで愚かしい社会の現状について書きなぐった。 この日はその他に、禁煙事情に関する他の番組も放送されていたので、録画し、夫婦で見た。 これが、新手の広告だと気付いたのは、番組の終了時だった。 ヤラレタ!と思ったのは筆者だけではなかったに違いない。 その番組は、テレビ東京の"世界が語る大人のたばこ〜あなたは喫煙派それとも嫌煙派〜"というものだ。 このタイトルは、テレビ番組を掲載した雑誌のタイトルとは違っている。 昨日、ビデオを見た時点では、このタイトルには気づかなかった。 なんとも迂濶であった。 タイトルを見ればタバコの広告であることは一目で判別できたのだった。 それにしてもやられてしまった。

今回の話題も、今後連載を予定している、"(仮称)煙草問題に学ぶ騙しのテクニック"の序章になる内容である。 連載を急がねば!

さて、その番組は、米国の禁煙事情の紹介から始まり、欧州での事情、煙草の歴史など、コマーシャル抜きで(!)、 延々と続いた。

ニューヨークで、私的なものを除く建物内では、完全に禁煙になったことなどや、行政府の説明などが紹介された。 このあたりは、"そうだ、そうだ..."と納得できる内容が多かった。 しかし、規制に反対する発煙者の意見を随分と尊重することは、その時点で少し気になっていた。

問題はその後で、米国の次は、欧州に移る。英国で、禁煙パブの成功を紹介した後、 スペイン、フランスでの事情へと話題が変わってゆく。 米国の場合も含め、レポータは全て発煙者だった。 現在の事情に加え、煙草の発祥や、欧州での歴史等も巧みに織り交ぜる。 変だと思ったのは、この後で、この番組の主張は、スペインやフランスでは ほぼ全員が発煙者であると受取れるような表現を多用したことだ。 また、やたらと"文化"を主張する。 例えば、フランスでは、"芸術家や文豪などがパブで煙草を使用しながら親睦を図った"、 とか、"スペインでは結婚式で、来賓に葉巻を配るのが風習だ"といった話だ。 このあたりで、筆者は既に眉唾の気分になっている。

そして、仕上げは3人の対談者による議論だ。場所は日本国内と思われるが、 立派な庭園の見えるテラスのようなところで、3名での対談だ。 1名は芸術家(詳細はあえて書かない)で発煙者、1名は、偶にテレビで見かける評論家で自称"重度発煙者 (元はカタカナ用語ですが、皆様分かりますね?)"、もう1名は、生まれてこのかたタバコを咥えたこともない という漫画家だ。 上述のように、"タバコは文化だ"という常套の騙し手法が展開されていたので、 上述の芸術家は、同じ主張を繰り返す。 自称重度発煙者もこの理屈に乗じる姿勢を見せたが、漫画家に、"そういう理屈が嫌いだ。 言い訳するならそんな理屈をこねるべきではない。" と指摘され、2名とも気まずい顔をする。
このなかで唯一の救いだったのは、自称重度発煙者が妙に謙虚だったことだ。 彼は、自分は重度発煙者だが、本当は止めたいと思っているという。 そして、彼の表情や言動からは、止めることのできない自分に対する自己嫌悪感が読み取れる。 これに対して、芸術家のほうは、"煙草を使用すること発煙他人に害を及ぼしていること" という当たり前のことも全く認識できていないのに対して、マナーを守っていると称している。 彼のいうマナーというのは、"自分のグループの他のメンバーに(だけ)宣言してから吸う"というお粗末なものだ。 これは、通常の発煙者と同様、断りを入れることが免罪符になっているという自分勝手な解釈を意味する。 しかも、番組の途中で、煙草の吸い方を父に教わったとか言いながら、咥えて見せて、 何のことわりもなくそのまま火をつけてしまうというお粗末さだ。

ここまで来た時点で、既に番組に対する不信感は絶頂に達していた。 勿論、煙草の害に関する説明など何もなかった。そして、番組終了後に、

資料提供  たばこと塩の博物館
の文字が!

なんと、番組全体が煙草の広告だったわけだ!そして、広告であることを知らずに見せられてしまったわけだ。 道理で広告を入れないはずだ。いかにも中立なふりをして、一方的に煙草を宣伝する。 こんなのは反則行為ではないのか?

やられた!

とうとうこんな手で来たか!皆様も騙されないように気をつけましょう。
新シリーズへと続く
注:読者の方からの御指摘で修正してあります。

無用な危険に身を晒す

2004/10/31

個人的な事情もあって、最近更新が途絶えていた。そんなときに、大きなニュースがいくつか飛び込んできた。
自分として最も考えさせられたのは、日本でのイラクでの人質殺害事件だ。 地震や台風の被害も目に付く度合いでは大きいが、これらは天災なので避け難い部分がある。 それに対してイラクでの人質拘束・殺害事件は、避けることのできる人災だった。 この事件に対してどのような議論が為されているかは自明だったが、 Yahooの掲示板等を読んでいると、思った通り、死者に鞭打つだけの低レベルな議論が多かった。 被害者の落ち度が甚大であったことは議論の余地がないだろうが、それだけで被害者を責められるものではない。 何よりも、この世で、本人が無くしてしまった将来と、周囲の人々の悲しみに対して同情すべきだろう。

この話題は煙草の話とは関係なさそうだが、実は根が繋がっているのだと思う。
報道されている内容がどの程度の真実であるかは分からないが、筆者が察するには、動機は興味本位だったのだろう。 この興味本位という部分が、事件の本質ではないかと思う。

イラクの場合は、国内での人権問題などがあったにせよ、他国からの干渉によって多くの人命を失い、 憎しみや悲しみを増大させているのは事実だと思う。 こうした憎しみや悲しみが、殺戮のループを起こしている。 こうした問題に対しては、別の次元で議論しなければならない。 しかし、今回の人質拘束事件は、個人レベルで避けられた問題だ。 殺戮は決してゲームではないのだから、そこに近づくというのは、自ら志願して巻き込まれることを意味する。 はっきりとした目的なくしては決して近づいてはいけないところだ。 例えば、台風の日に海を見に行って海中に落ち、死亡するというのも、 対人間と対自然という違いはあるが同種のことだろう。

興味本位の問題のうち最も身近で問題なのが、煙草への接近だ。
国家ぐるみで、"煙草は大人の嗜好品"、とか、"大人は煙草を吸うのが当然"のような狂った洗脳を行っているので、 大人の世界を覗いてみたいという子供の本能をくすぐる。 万引きや恐喝のような犯罪行為だって最初は興味本位の場合が多いだろう。 WHOのような国際的な団体でも、煙草が人の命を奪うという事実は既に指摘されているし、 そのような内容を指摘する書物は少なくない。 それに、筆者のページのみならず、煙草の害毒性を指摘するページなどは、インターネット上に多数存在する。 煙草が害毒であることは、公然の事実なのだ。

しかし、子供は興味本位で、害毒しかない煙草に手を出す。 その結果、煙草中毒になり、最終的には体を壊し、煙草病で死亡する。 煙草は、それだけでなく、周囲の幸福を破壊し、人までも殺してしまう恐ろしい薬物なのだ。 最初は興味本位であっても、煙草は依存性のある薬物だから、確実に人を不幸へと導く。 興味本位などで手を出すような代物ではないのだ。

このような、危険な罠が巷には公的に溢れているのが実態だ。 現在のような科学技術の発達した世の中でも、このような狂った風潮が続いているのだ。
今回のイラクの人質事件で、被害者を責める風潮は頂けない。 何故なら、煙草に手を出すのも、自分が死に、周囲を殺し、公的な保険に甚大な被害を与えるということは同じなのだ。 興味本意でイラクに行くほうが、他人を殺す可能性がないだけましだ。 それに、イラクで殺戮が実行されているのは、宗教的や思想的な背景もあり、そこに憎しみが渦巻いているのに対して、 煙草の販売は、利益目的だけの人殺しだ。被害者の数にしても比較にならないほど多い。 一体どちらが社会的に責められるべきなのか。

以上

イタリアへ行こう‐報道されなかったニュース‐

2005/02/13

2005年1月10日、この日から1400万人のイタリア人は、強制排煙装置のある室内以外の公共の場での発煙が禁止された。

皆様はこの事実をご存知だろうか?多分ご存じないだろう。 どうやら日本ではこのニュースを敢えて報道しないところが多かったようだ。

先日、家族が、"イタリアでは全面禁煙になったんだって!"と言った。 聞くところによると、レストランやバーなどの施設では全て禁煙になったとテレビの夕方のニュースで報道したらしい。 そのニュースでは、イタリアでは、若い女性で組織した、Smoke Busters(何故か英語?)という部隊が、レストランなどに入り、タバコを見つけると火を消す、といった活動を続けているのだという。 いかにもユーモアたっぷりのイタリア人らしい。
ところが、朝日、読売といった大手新聞社のサイトを検索して見るとそのような記事は全く見つからない。 他にもそのようなニュースは見なかった。
そこで、英語のサイトで検索してみると、確かにそのような記事があった。そのうちから、VOAのサイトをご紹介したい。

この記事へのリンク
注:日本語部分は、Smoke Stiksの翻訳または解説です。

Smoking Ban Takes Effect Across Italy(発煙禁止法イタリア全土で発効)

10 January 2005

As of today 14 million Italians will no longer be allowed to smoke in public places unless they have special ventilated smoking rooms. And, those who light up in violation of the law will be facing heavy fines.

本日を以って1400万人のイタリア人は特別な排煙設備のある室内以外の公共の場所での発煙は許されなくなった。 そして、違反者には重い罰金が課されるようになった。

Italians woke up this morning to a new anti-smoking law, which stops them from lighting up in bars, restaurants and offices. There is no more smoking in movie theaters, schools, hospitals or on public transport.

イタリア人は、今朝、新しい発煙禁止法に気づいた。発煙禁止法はバー、 レストラン、オフィスでのタバコへの点火を禁じるものだ。 今後は、映画館学校、病院または公共の交通機関での発煙は許されない。

Enforcement of the law began at midnight. Some have described the new norms as a form of prohibition, but according to surveys, 60 percent ofx Italian smokers are in favor of the new ban and plan to change their smoking habits.

この法律は深夜に施行された。或る者はこの基準を禁止の形態だと説明したが、 調査によると、イタリア人発煙者の60%は発煙禁止法に好意的であり、彼らは 自らの発煙癖を変えようと考えている (註:イタリア人発煙者の60%はタバコを止めたいということを意味している)。
注:読者の方からの御指摘により表現を修正しました (2006/09/03)。

Italy's Health Minister, Girolamo Sirchia, who pushed for the law, says it's not a prohibitionist law but one aimed at safeguarding the health of all Italians.

この法律を後押ししたイタリアの厚生大臣、Girolamo Sirchiaは、禁止論者の法律ではなく全てのイタリア人の健康を守ることを狙ったものだ、と語る。

Prohibitionist, he says, means that smoking is banned. But that is not the case. Smoking is allowed in certain areas, like in one's home and in areas for smokers which are equipped to safeguard the health of those who smoke and those who work in these places.

彼の言う禁止論者とは発煙そのものを禁止するということだ。 しかし、これはそうではない。発煙を許可するエリアもある。 たとえば自宅や発煙者のためのエリアである。 それは、実際に発煙しその場所で働いている者の健康の安全を守ることができるように 装備されたエリアである(註:この法律では発煙者本人の健康は守ることができないと考えられるが、 強制排煙設備によって副流煙を減らすことができれば多少は効果があると考えているのだろうか? それに、自宅で発煙すれば、家族が被害を受けるので矛盾は感じられる)。

Some Italians are unhappy over the new restrictions. Italy's Defence Minister Antonio Martino, who has been smoking since he was 18 years old, feels the new restrictions have gone too far and says it's his sacred right to smoke.

イタリア人の一部はこの制限に不満である。18歳から発煙を続けているイタリアの防衛大臣Antonio Martinoは、この新しい制限が無くなることを望み、発煙は侵すことのできない権利だと云う。

But most Italian smokers seem to be taking the new law in stride. "We can no longer smoke," he says. "While before we used to ask where are you going for dinner tonight, now we'll be asking where are you going for a smoke tonight."

しかし、殆どのイタリア人発煙者はこの法律が、正常な社会の流れであると考えているようだ。 "我々はもうタバコを吸えない"と彼は云う。"以前は、今夜どこへ夕食に行く? と尋ねたものだが、今後は、どこにタバコを吸いに行く?と尋ねるようになるだろう"。

Only about 10 percent of Italian restaurants have special smoking areas and many owners have said they do not plan to set up special smoking rooms. Smokers will just have to get used to it or go outside, says this restaurant manager.

イタリアで特別な強制排煙場所を備えたレストランは、たったの10%しかなく、 多くのレストラン経営者は特別な排煙室を設ける計画はないと語った。 発煙者は外に出ることに慣れればいいのだと、このレストラン経営者は語った。

"I've told those ladies over there, there's no more smoking," she said as she served food at one table. Smoking is bad for you.

"私は、そこの婦人たちに、もう発煙する場所はないのだと云った"とあるテーブルに食事を運んだ女性が語った。 発煙はあなたたちにとって良くありません。

While the new anti-smoking law is one of the most restrictive in Europe, most of the Italian smoking public seems to be resigned to the inevitable. Fines will be heavy for offenders, but even heavier for bar and restaurant owners who do not enforce the law. Customers realize there is little they can do.

新しい発煙禁止法はヨーロッパで最も厳しい制限の一つでありながら、 公共の場所で発煙しているイタリア人の殆どは、避けられないものとして従っているようだ。 法律に違反して発煙した者への罰金は重い。 しかし、法律に従わないバーやレストラン経営者への罰金は更に重い。 顧客は自分にできることが殆どないことに気付いている。

"I think in the end it will be a good thing because we'll get used to it," said this customer.  "Just like we got used to not smoking in trams and movie theaters." He added: "It's all a question of changing habits."

"結局それは良いことなのだと思う。何故なら我々はそれに慣れてゆくからだ"この客は語った。 "客車や映画館などでの禁煙に慣れてきたのと同じことだ"。 彼は次のように付け加えた。"全ては習慣を変えることの問題なのだ。"

But, one big question remains. Will the ban be enforced or will it be yet another Italian law that will exist on paper but not in practice?

しかし、大きな問題が一つ残る。発煙禁止法は機能するのか、 または、過去のイタリアの法律のように、条文があっても実行されずに残るものなのか?


イタリアはローマ時代の遺産を持つ観光大国である。悪く言えばローマ時代の遺産に頼っているとも云えるし、 良く言えば大国としての歴史を持つ国でもある。
筆者も2003年にイタリア旅行をした。町並みはどこも美しく、芸術や文化遺産の多く残る羨ましい国であると感じた。 残念なのは、日本並みに出鱈目のタバコ放置状態であった。観光ガイドの話では、 イタリア政府も発煙者の数に頭を痛めていたので、増税などの対策を採ってきたが、 それでも発煙者の数は中々減らないということだった。
しかし、やってくれたものだ。イタリア人もやるときにはやるものだ。 さすがに古代大国の歴史を持つ民族だけのことはある。

実は、筆者の
ホームページには、イタリアの写真が背景として使用してある。 このページを作るにあたって、タバコの汚らしい写真を掲載したかったのだが、 どうもそのような汚らわしい写真は撮る気がしなかった。 言ってみれば、"カメラが腐る"、"目が腐る"という気分なのだ。 そんな訳で自分で写した写真を探していたら、あるわんこが吸殻のところを興味深そうに見ている写真があったので、 それを背景として採用したという訳である。

それにしても、このようなニュースを敢えて隠した日本のマスコミは腐っていると云わざるを得ない。

今後、イタリアでこの発煙禁止法が定着し、住み良い国になることを期待したい。

皆さんもイタリアに旅行しましょう。

この項以上

放送局は浄化されるか

2005/04/24

以下は4/13で載せようかと思っていたが、その後またも状況が変わってしまった。 放送局の浄化なんてどうでもいい感じで、金儲けの話に決着してしまったようだ。 放送局の浄化は、まだまだ先の話になりそうな感じである。



自分は、思いついたことがあるとメモをとり、一部は下書きとして書き留めるようにしている。 ところが、公開できずに埋もれてしまった下書きも少なくない。 公開できなかった理由は、状況が変わってしまったり、重要性を感じなくなってしまったりと様々である。 また、じっくり考え直す必要があるので塩漬けにしている原稿もある。 今回は、お蔵入りする直前の原稿を公開することにした。 書き始めたのは1ヶ月以上前で、状況が刻々と変わっているのでご注意ください。

テレビを点けるとそのときそのときの時の人が映る。 時の人とは云っても、本当に注目されているのか、メディアによって注目させられているのか、 いつも同じ話題ばかりなのが気にかかる。 自分にとっては、ゴルフや野球などは興味の対象ではないのに、テレビを点けるといつも (自分にとって)同じもの見せられてしまう。 それに対し、イタリアの発煙禁止法など自分にとって重要なものは、全く報道されない。 こうした恣意的な話題誘導はどうにかならないものか。 やはり、放送メディアは問題が大きい。 勿論、メデイアから自分の考えで情報を選択する人が増えればメディアも変わってゆくのだが、 話が大きくなりすぎるので、ここではメディアの問題を考察するだけにしておく。

ここ最近の時の人は、フジテレビの会長日枝氏とライブドアの社長堀江氏だ。 このニュース、最初に聞いたときから自分から見れば勝敗は決まっていた。 既存の体制にあぐらをかいていた大企業の弱点に、新興勢力が襲い掛かった。 これが自分の見た構図だった。その結果、大企業側が、管理の甘さを世間に晒してしまった。 これが、自分の見方だ。 結果は、執筆時点ではライブドアが、司法の判断を受け、勝利を収めようとしているように見える。 自分にとっては、最初の一撃で、フジテレビの首脳陣の無能さを世間に引きずり出した時点で、 その後の結果がどうであれ、勝負は終了だった。

ところで何故このようなことを書いているかというと、旧来のメディアには限界が見えているからだ。 既に度々指摘しているように、旧来メディアはスポンサーの損得勘定で報道内容を決めている。 だから、正しい情報を得ようと思えば、インターネットを駆使するしかない。 インターネットの情報だって、旧来のメディア系のものが必要な情報を隠していることは既に指摘済みだ。 しかし、インターネットは世界各国のまた、各個人の情報が利用できるので、 相当の知識をもって読めば相当な調査ができる。 しかもテレビのように不要な情報が終わるのを待つ必要はない。正に宝の山だ。

そんなところに今回のライブドアとフジテレビの争いであれば、成行きに注目せざるを得ない。 インターネットからの新しい血の混入で放送メディアはどうかわるのか、正常な方向に動くのか、 それとも、スポンサーのご機嫌とりは変わらないのか、興味は尽きない。 仮にライブドアが、フジテレビの経営に影響を及ぼすことができるとしても、 現在の体質は簡単には変わらないと予測できるので、実際の変化は微妙なのかもしれない。 それでもどのような変化が見られるのかは興味が尽きない。

元々、日本の行政下においては、放送事業には、簡単に参入できないので、 新たな放送事業を開始するには相当な期間が必要だ。自分はかねてから放送などは、 電波管理上でよほど大きな問題がない限り、自由に認可するべきものだと考えていた。 それでも、実際には、30年前から東京でも実質は放送局が増えていない。 一応、東京のローカル放送や放送大学が増えてはいるが、 ローカル放送は役人の天下りのレベルで全く面白くないし、放送大学は目的が決まっているので、 他の放送局と同列に論じることはできない。 ここ30年の間に衛星放送の放送局も開局はしたものの既存の会社の系列なので、 報道については大して代わり映えがするわけでもない。
かろうじて増えたのはケーブルテレビと有料の衛星チャンネル位のものだと云ってよいと思う。

こんな状態のところに、現在はインターネットという、万人参加型のメディアが登場したというのが今の状況だと思う。 このインターネットを使用して既存の放送メディアをどのように改善していけるのか、期待したいところだ。

とここまで書いたのが3月の中旬で、その後事態は変化してきている。 フジテレビは防衛のために、ニッポン放送に新株予約権を発行させ、それを全額譲り受けるという荒業に出たが、 地裁、高裁と否定され、法律論争はとりあえずの決着が着いたようだ。 しかし、今度はソフトバンクを巻き込んで防衛に努めている。 防衛しているのか、ソフトバンクに利用されているのか分からなくなってきた。 見えているのはフジテレビ経営陣の惨めな末路だけで、ライブドアに勝った、 負けたと騒いでいる人々が阿呆に見えてしょうがない。

メディア全体のことについて書くと、やはりメディア全体が単なる興味本位とおふざけに過ぎないと感じる。 題材となっている当事者を"ホリエモン"などと書く記事を貴方は信用できるだろうか?

しかし折角だから行方だけは見ておきたい。行方というのは、勝ち負けの話ではなく、放送業界の今後である。 いずれにしても、煙草会社に報道内容まで気兼ねするような体質がそのまま残るのであれば、 放送業界もおしまいだと思う。そうなると社会全体の浄化はなかなか進まないだろう。

個人的には、勝手に流されるだけの放送局なんか要らない。 自分で中身を選べるインターネット放送があれば十分だと思う。
以上

発煙者は本当に優良納税者か?

2005/05/03

発煙者は優良納税者だという主張をよく聞く。この主張は変だなと、ずっと前から思っていた。 どこが変なのか、答は分かっていたが、試算していなかったので、ここで書くことはなかった。 今回は連休で少し時間ができたので、税額を試算してみた。 考えていた通りの試算結果が出たので、ご参照ください。

(優良納税者とは何か?)

優良納税者を自称しようと思ったら、いくつかの条件を満たす必要がある。

(1) 高額納税をすること。平均を超えていれば優良と呼んでも差し支えないだろう。
(2) 脱税していないこと。
(3) 受ける行政サービスより、支払う税額のほうが多いこと。
(4) 給与所得者の場合は、直接支払う税額が多いだけでなく雇用者が法人税を多く納めていること。

上記の(1)‐(4)はどれも当然のことだが、(4)は、結構見逃されているかもしれない。 しかし、(4)は、個人の努力とは必ずしも一致しないかもしれないので、考慮しなくても良いだろう。
(1)‐(3)をまとめると、行政に頼らずに豊かに暮らしているということだ。

では、実際にたばこ関連の税金は、他の税金と比較するとどれくらいあるのだろうか? 詳細を論じるには、大学教授や研究者レベルでなければ無理なので、ここでは、 所得税と住民税に絞って論じてみることにした。 詳細を論じるためには、年金"保険"、健康"保険"といった、税金に限りなく近いものや、 消費税、法人税などを考慮しなければならず、こういった議論は専門家に譲るべきだと思う。

所得税や住民税などを論じるには、まず個人の年収を想定しなければならない。 自営業の場合は、年収の定義が曖昧なので、ここでは、一般的な給与所得者に絞ることで考える。 給与所得も幅が広いが、アルバイトニュース的なものや転職情報のようなものをざっと眺めて、 モデル年収を4通り想定した。

(ア) 年収240万円

これは、月収20万円としたもので、 フリーターや日雇いに近い人はこれ以下であろう。
(イ) 年収500万円
平均的な会社に勤める人の年収はこれ位が普通のようだ。 いろいろな統計があるが、それぞれが皆適当な仮定を置いているのでどれも正確とは云い難い。 この数字だって当てずっぽうだが、これ位の年収の人は多いと思う。
(ウ) 年収800万円
比較的大きな企業で働いていると、 中堅以上でこの程度になることが多いようだ。当然、これよりはるかに給与の多い会社も相当数あるだろう。
(エ) 年収1,100万円
累進課税率の切れ目が1,000万円超だったので、 1,100万円としてみた。これ位あればかなり豊かな部類に入るのではないだろうか。

住民税で使用した地区は、東京都多摩市のものである。 これは、検索していて、見易い資料があったのが多摩市であっただけである。所得税は全国共通なので、 国税庁の資料から調べたものである。
ここでは、扶養家族があるものと仮定し、それぞれ扶養控除を最大とし、また、 その他に控除額が100,000円あるものと仮定して試算している。

また、たばこ関連税は、JTのページから調べたものであり、消費税は抜いてある。 何故なら、消費税はたばこ関連税ではないからである。 また、たばこの年間消費量は、発煙者平均で365箱と仮定した。

この結果を下記の表に示す(詳細な計算は、
tax-calc.xlsにあります。Open Office Calc(フリーソフト)で開くことができます)。

モデル年収
2,400,000
5,000,000
8,000,000
11,000,000

所得税
64,000
260,000
698,000
1,137,000
(a)
住民税
42,800
303,000
557,000
1,081,600
(b)
所得税+住民税
106,800
563,000
1,225,000
2,218,600
(c)
たばこ関連税
58,707
58,707
58,707
58,707
(d)
(d)÷(c)×100
55.0%
10.4%
4.7%
2.7%


この数字を見て読者の皆様はどのように考えられるだろうか。

ここでは、公的保険の類が考慮されていないので、消費税は抜いてある。 消費税の納税額は、可処分所得に比例していると考えられるので、 高所得者は消費税の納税額も当然多くなる。 だから、実際には、所得の高低差によるたばこ関連税の負担感は更に大きいのである。

巷で最も良く見かける発煙者はどのあたりに位置するのだろうか? そんなデータを行政が取っているとは思わないが、たばこ会社は市場調査しているだろう。 これ以上は書かないが、筆者の考えと読者の皆様の考えとは多分大差ないだろう。

絶対に云えることは、たばこの税金が高いと感じている人は、 その他の税金を多くは納めていないということだ。 表を見て分かる通り、ある程度の所得がある人にとっては、たばこの税金など、 他の税金に比べて僅かに過ぎないのだ。
発煙者が優良納税者だと思っている人は、優良納税者ではないということなのかもしれない。

以上

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