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タバコ用語で騙される

たばこの販売促進術には、官民協働の巧妙なダマシが含まれています。
筆者自身、そうしたダマシのテクニックを指摘してきました。
その中で、最も効果的で、ダマシと気付かせない手法が、タバコ用語を活用したものです。
この章では、ダマシの手法として使われているタバコ用語について、記しています。

用語のなかで、『たばこ』、『タバコ』、『煙草』の使い分けについて記載しておきます。
これらの用語には、明確な使い分けの方針は、ありません。
このページでは、『煙草』という表記に統一してきましたが、この表記だけでは、検索エンジンにかかる機会を失うため 『たばこ』および『タバコ』という用語も使用することにしました。
世間一般の用法、または、学術的な用法ではありませんが、このサイトでは、『たばこ』を基本として使います。
そして、その直後に漢字を伴う場合に、『タバコ』という表記を行います。
元から使用してきた『煙草』という表記は、一般にはあまり使われていないため、表題にのみ使用するようにします。

以上を前提として、タバコ用語について以下に論じます。
この章は、特に重要なので、なるべく多くの方に読んでいただけることを希望します。

喫煙

ダマシに使われるタバコ用語のトップバッターは、『喫煙』です。

『喫煙』という用語は、いったいいつ作られたのでしょうか?
江戸時代からあったのでしょうか?
意外に新しい用語かもしれません。

この用語は、西洋の言語とは、違った表現になっています。

英語では、"somking"、スペイン語では、"humar"、ドイツ語では"rauchen"と表現します。
これらは、煙をモクモクさせている状態を表現します。
外部から状態を観察した、客観的な表現といえます。
すなわち、翻訳すれば、『発煙』というのが素直な表現でしょう。
本人以外のだれから見ても発煙であることに間違いはありません。
もちろん、本人から見ても発煙であることに違いはありません。

それに対して、日本語の『喫煙』といのは、その本人の主観的な表現です。
『喫煙』は、世界中でたったひとりの本人だけに通用する表現です。
和を持って尊しとする日本で、このような、主観的な表現を使っているというのには、違和感があります。
これは、客観的に『発煙』と表現すべきでしょう。

しかし、発煙を喫煙と言い換えることにより、たばこの利用と販売促進にはメリットがあります。
素直に発煙と表現してしまうと、迷惑が前提になります。
ところがこれを喫煙と表現することによって、迷惑性を隠してしまいます。

たばこがなぜ社会的に問題なのかを考えてみましょう。

たばこの煙は、すべての人にとって不快なものです。
不快であるうえに有害なものです。
だから、発煙と表現すると、この問題があらわになってしまいます。

そこで考えだされたのが、『喫煙』という、主体を入れ替える表現なのでしょうか?
問題が顕在化する前から使われていた表現なのかもしれませんが、この用語は、たばこの問題をけむにまく効果があります。

以上のように、『喫煙』という用語は、たばこの問題を隠す効果があるため、このページでは、『喫煙』という用語を使いません。
かわりに、『発煙』と表現します。
従って、喫煙者という用語も使用せず、発煙者と表現します。
文字通り、煙を撒く者です。
本人が煙を吸っているかどうかは関係ありません。
客観的に見れば、煙を撒いているだけなのです。

『受動喫煙』などという用語は、明らかにへんですよね。
本人は一切希望していないのです。
『喫煙』という誤った表現を無理やり使うための、このようなおかしな表現になってしまうのです。
これは、素直に、『煙害被害』と表現しましょう。

新しい表現:強煙・放煙

“歩きタバコ”という言葉が広くつかわれています。
しかし、この用語は、問題の本質を見落とさせる用語です。
このことに気づいたのは筆者一人ではありません。
しかしながら、この”歩きタバコ”という用語は、既に一人歩きを始めてしまっています。
歩きタバコなどというから、”それなら立ち止まって吸えばいいのか?”
とか、”ここ は私有地だから...” 等と云われてしまうのです。
それなら、もっと、行為そのものを明確に表現する用語はないだろうか、 ということで新しい用語を考えてみました。
こうした用語が一般的になれば、たばこの問題は随分少なくなるのではないかと思います。
なぜなら、他人が存在する空間での発煙そのものが、世の中にとって迷惑な行為だからです。

強煙(ごうえん)

まず第一は、強煙という用語です。
これは"ゴウエン"と読むことにします。
他人に吸煙を強制する行為を指します。
人が生命を維持するのに空気は欠かすことができません。
その空気の中に、望まない物質を混ぜられてしまっては、どうすることもできません。
望んでいなくても、強制的に嫌なものを口に突っ込まれてしまうということです。
以前、発煙行為と、強姦や痴漢との類似性を指摘したことがあります。
類似性とは、自己の欲求を優先し他人の都合を無視することだということを書きました。
だから強煙の後半は、煙を3つ書きたいほどです。
このような用語で表現すると、オフィスで煙草を許容するというのは、周囲の人に対する強煙行為を支援する
ことが明確になり、人権問題として議論しやすくなります。
また、特別法を制定して強煙に罰則を与えるという道筋をたてる布石にもなります。
元々は、本文で暴煙という用語を使いましたが、強煙のほうが違法性が強く表現されているのではないかと思います。

放煙(ほうえん)

次に提案するのは放煙という用語です。
文字通り公共の場所に煙を放つ行為を指します。
普通は、何かを燃やす行為というのは、かなり限定された条件下でのみ可能なことです。
焚き火は場所を選ぶし、家庭内でだって加熱調理をするには、調理器具を使う以外はあまりありません。
何故かたばこだけは特別扱いされています。
公共の場所でたばこを燃やして良いという法的根拠はあるのでしょうか?
放火とは、積極的に他のものを燃やそうという意思があるかないかだけの違いであって、火をつける行為は同じです。
やはり、たばこは矛盾の中でだけ存在できる不思議なものだと思います。

放火を引き合いに出したところで、放煙という概念が明確になったと思います。
公共の場所に毒物を含んだ煙を放つ権利などというものはあるはずがありません。
放煙行為も法律によって明示的に禁止する必要があります。
放煙という概念で違法行為を定義すると、”ここは私有地だ”とか、 ”立ち止まっているから歩き煙草ではない”とか、自分勝手な言い訳が通らなくなります。
このような本来の目的に即した用語こそが、問題の本質を明確にするために必要です。

強煙、放煙の引き合いに出した単語は、それぞれ強姦と放火で、どちらも犯罪行為です。
現在、不当に容認されている煙草による被害が、こうした犯罪被害と質的には変わらない というところに多くの発煙者が気付くようになれば、問題は、加速的に改善されるでしょう。

基本的人権


日本の学校教育では、憲法を教えていますが。正しく理解している人はあまりいないようです。 憲法は、小学校で概要を教わり、大学の教養課程でも少し教わります。 法学部の専門課程では、詳しく教わります。 しかし、今では、法学部を出た人でも、基本的人権については知らない人が多いようです。 いったいどうしてしまったのでしょうか。 これは、すでに公開したウェブサイトに載せた筆者の主張に対し、ある人(A氏としておきます)が、 煙草の問題を考える伝言板を通して議論を仕掛けてきたときのことです。

A氏

喫煙権と非喫煙権という基本的人権の対立について考え直し、どのように分煙を進めるべきか議論したい。 (筆者には意味が分かりませんでした)

Stinks

そもそも貴方のいう人権とはどの条文を指しているのか?

A氏

憲法第 13 条の自由権をライフスタイルの自己決定権として考え、これが喫煙権の根拠になっている。
これは、喫煙者と非喫煙者との権利の衝突だ。

Stinks

貴方の云う自己決定権(喫煙権)は、誰にも迷惑をかけないところで存分に行使できる権利であることは確かだと思うが、 喫煙権、をライフスタイルの自己決定権として行使するということは、 煙を吸わされる側のライフスタイルの自己決定権を否定するものであり論理が矛盾していないのか?
結局、貴方は、"どれくらいなら我慢して貰えるか"と問うているのか?

A氏

これ以上議論しても無駄だ。


誰にも迷惑を掛けない場所での発煙権に意義を唱える人は少ないと思います。
迷惑が及ばなければ、議論する必要はありません。
議論が必要だということは、A氏の主張が、筆者が定義した用語で表現すると、『強煙権』『強煙されない権』という権利の比較になっているということです。
さらに、A氏は、強煙権が基本的人権だと主張しているのです。
その主張がどう間違っているのか、『強煙』という用語を使っただけで明確になってしまいます。

上記の議論の内容は、既に様々な掲示板で議論されてきたものとほとんど同じものです。
決して筆者が自分で考えた論法ではありません。
ちなみに、この後、別の読者から、A氏に対する抗議の投稿がありました。
どれも自分自身で伝えようかと思っていたことを別のもっと良い表現で代弁されたものでした。
筆者も終結宣言を出そうと思っていたところ、A氏からも終結宣言が出たので、終結しました。

こういった議論は本当に時間の無駄です。
何故なら、憲法や法律のどこを探しても、強煙権や放煙権の根拠が見当たらないからです。

基本的人権とは、憲法第 97 条で明示される通り、国家権力によって侵されることのない永久の権利です。
人権という概念さえない時代からの努力の成果として、人々が国家権力に侵されない権利として獲得したのが基本的人権です。
ですから、国家権力によって簡単に否定される可能性のある発煙権を基本的人権に含めることは根本的な間違いです。

発煙権のようなものは、国家から付与された二次的な権利(=禁止していないということ)であって、基本的人権ではありません。

この点を無視して、憲法13条の範囲内で発煙権問題について論争すると必ず権利の衝突の問題に成り下がります。
しかし、たとえ憲法13条の枠内で争ったとしても、上述のように、強煙権の根拠を見出すことはできません。
こういった、基本的人権の意味を理解していないことが前提の議論は、強煙や放煙という用語をつかわないために起こるのです。

無駄な議論は避けたいですね。 

共存・共生

タバコ問題で議論するときに、タバコ擁護者は、『共存』とか『共生』という用語を使います。
これらも、ダマシに使う用語であることに注意しましょう。

もともと、憲法で、基本的人権を保障されている人間には、区別はありません。
国籍も、性別も、身分も何も関係ありません。
日本の憲法だからといって、日本人だけに基本的人権を保障しているわけではありません。

当然、発煙者とか非発煙者というグループがあって、権利の大きさが違うということもありません。

基本的人権に含まれない憲法上の権利については、日本人にしか保障されず、また、公共の福祉の制約も受けますが、 基本的人権については、死刑執行など法的手続による以外は、すべての人に対して無制限に保障されます。

発煙権については、基本的人権ではなく、包括的な自由権に含まれるものなので、その行使にあたっては制限がつきます。
権利が制限されない範囲においては、自由に保障されます。

このため、人は、すべて、共存・共生の関係にあります。

それを『喫煙者』(当然発煙者というべきですが)という、あたかも、特定の人種があるかのような印象を与える用語を 使って、人種差別のような不当な差別をしていると主張するときに使うのが、この『共存』とか『共生』とかいう用語です。

タバコ利権者が使う『共存』とか『共生』という用語は、同じ権利を与えられて実際に共存しているのに、 『放煙権』や『強煙権』が不当に制限されていると主張するためのツールなのです。

こういう用語はつかわないようにしたほうが良いでしょう。

愛煙家

タバコ販売促進のために、『愛煙家』という用語を使います。
これも、ダマシに使う用語であることに注意しましょう。

『愛』を付けて、『家』で終わるの用語は、その文化を愛し、健全な維持と発展のために力を尽くす人のことです
ですから、本当の愛煙家は、エッセイ集に登場するNさんのように、放煙も強煙も無くなることを願い活動します。
強煙も放煙も問題と思わないわがまま発煙者を愛煙家と呼ぶことを適切ではありません。

愛煙家という用語は使用しないようにしましょう。

嫌煙

『嫌煙』という用語も、いまでは、タバコ販売促進のために使われます。
何かを嫌う、という言い方は、自分勝手・わがままのイメージをつくるからです。
これは、上記の『愛煙家』とは、逆の用法です。
強煙されない権利を嫌煙権と言い換えてしまうと、自分の欲望のために何かを我慢させるわがままな主張というように印象付けられます
これも、主体を入れ替えるために、本質を見えなくする用語になります。
単に、強煙権と放煙権を否定すれば十分で、嫌煙権などという用語を使ってはいけません。

歴史的な背景はあるにせよ、もう嫌煙という用語とはおさらばしましょう。

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